2015年10月20日

【本の紹介】 ひめゆりの沖縄戦


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 書 名 ひめゆりの沖縄戦
 少女は嵐のなかを生きた
 著 者 伊波園子
 出版社 岩波ジュニア新書
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沖縄戦は、住民(非戦闘員)を巻き込んだ国内戦であり、多くの住民が犠牲となりました。当時、大本営は「沖縄戦闘は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である(19451月)」と位置づけていたと言われます。
そんな中、194541日アメリカ軍は沖縄本島中西部に上陸。それから6月下旬までの約3ヶ月、南に逃れて行った日本兵、ひめゆり学徒隊、そして住民たち。ひめゆり学徒隊には、前線にありながら618日に解散命令が出されており、指揮系統を失った彼女たちは、米艦からの艦砲・戦車からの迫撃砲を避けつつ、少人数のグループ単位で死線をさまよい、島の最南端荒崎にたどり着きます。
この本を書いた伊波園子さんは、荒崎の岩場で足に銃弾を受けた直後、米兵に保護されますが、そのすぐ近くの岩場では、第一高等女学校の教師一名と生徒九名が、手榴弾による集団自決で命を落としました。
看護要員として動員され犠牲となったひめゆり学徒隊は136名。彼女たちは、現在であれば中学生から高校生にあたる年齢でした。この本の表紙にある少女のシルエットを見て、「うちの娘に似ている!」と思ったお父さんも少なくないのではないでしょうか。
この本は、岩波ジュニア新書の中の一冊です。ひめゆり学徒隊の当時と同じ年齢世代の人たちに読んでほしいということだと思います。
当時十代だった元ひめゆり学徒隊で、現在ご健在の方々も既に八十代になっておられます。ひめゆり学徒隊の事実、若い人たちに伝えていかなければなりません。
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年10月9日

国際交流スピーチ大会: 広島に行って感じたこと (湖北台中2年 菅野麗さん)

スピーチ大会参加者と審査委員
  927()、我孫子市国際交流協会(AIRA)主催の第17回国際交流スピーチ大会が開催されました。
今年の本大会は、我孫子市市制45周年記念、戦後70年・平和都市宣言30年の記念事業として実施され、テーマに「平和」を含んだスピーチ(英語の部、日本語の部)が、市内の中学生4名、大学生4名、社会人3名の合計11名により発表されました。
 
スピーチを発表する菅野さん
この中で、今夏、派遣中学生として広島を訪れた菅野麗さん(湖北台中学2年)が、「広島に行って感じたこと」という題で英語スピーチを発表し、我孫子市青木副市長から国際平和特別賞を受賞されました。

菅野さんは、このスピーチの中で、「自分たち若い世代が被爆や戦争の体験を直接聞くことのできる最後の世代であり、次へとつなげていくことで平和な世界が築ける」と訴えました。
菅野さんのスピーチ内容を、以下に紹介します。 

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For the three days from the fifth till the seventh of August, I learned many things about peace in Hiroshima. I experienced many things, and out of those, there are two things in particular that a lasting impression on me.

First, the people who were impacted by the nuclear bomb wish that the bomb will never be used again, and in order for that to become a reality, the younger generation must get involved. On the third day in Hiroshima, we visited places like the Peace Memorial Park and the National Peace Memorial Hall for Atomic Bomb Victims. During the visit, we were accompanied by volunteer guide. That guide said to us many times, “In reality, for the victims of the atomic bomb, the bombing many well be a memory they would like to forget. But even if that is the case, the bombing happened, so it can’t be forgotten. The want young people like you to come to Hiroshima and listen to their stories. In this way, the tragedy and inhumanity of the bombing can be told to future generations.” According to the guide, the people who lived reasonably close to the detonation point but strangely lived for a long time, mostly stay away from the media. However, even the people who think ‘I want to forget, I don’t want to recall it anymore’, say, “I continued to live after the bombing, so I have a responsibility to talk about it.” I discovered that there are people who do take interviews, and that there are many things we can learn from them. 

The other things that left a lasting impression on was the tragedy of the atomic bomb. On the second day in Hiroshima, we went to another museum. Honkawa elementary school peace memorial museum is a building that was in the blast radius of the bomb, you can still see the black soot still on the walls, the charred and blackened door frames: vivid reminders of the atomic bomb remain. Bent bullets from the fierce fighting, burnt Monpe and melted glass bottles. Any one of these tells the story of the terrible power of the bomb. At another museum, the Hiroshima Peace Museum, there were many exhibits and a lot of people. There were also people from overseas, and I could feel the focus both within Japan and throughout the world. When I first entered the museum, I saw reproductions of three atomic bomb victims. At that point, seeing that, I think it would make any people stop in their tracks. I felt my heart pound in my chest. I can’t explain the feeling in writing: the blank eyes, the horrendously burnt skin, the blood stained arms and legs. It is a doll that makes me go pale just thinking about it. You really have to see it to understand what I mean. The clock that stopped exactly at 8:15, when the bomb dropped, and the iron door that absorbed glass into it. The woman whose skin swelled up with scars, and the man whose face was covered in purple spots. Amongst them all, the most shocking was the stone with a shadow of a person. In the area around the person, the stone whitened due to the heat rays, and where the person was sitting, without being burnt, a shadow remains. It’s an exhibit that demonstrates the large number of live that were taken away in the instant the bomb detonated. All of the exhibits were wo gruesome they were difficult to look at, but even so, no matter how dreadful they were, if don’t face them then we can’t think about where we can go from here. So, even if don’t think you have the courage to look at those kinds of exhibits, I want to you to put the effort in to going, even just once, and see them for yourself. If you do that, I think that will help bring us one step closer and see them for yourself. If you do that, I think that will help bring us one step closer to world peace. 

I think we need to pay respects to the few people who can teach us about the truth of war learn more about the war, increase understanding, and work harder to achieve a peaceful world, because the protection of the world is our responsibility, as the next generation. I think there are still many people who haven’t been to Hiroshima, but even if it’s only a little bit, you should start to learn more about it. It’s said that people around my age will be the last to hear about the war and the atomic bomb directly. While we can still learn about it, we should learn as much as possible. While we can still hear about it, we should hear as much as possible. If we do this, the story can be passed down through the generations, and we can build a more peaceful world. 
(参考:スピーチ内容和文 

 
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講演する写真家宮角孝雄さん
また、スピーチ大会では、あびこ市民プラザで【写真展 “GROUND ZERO 平和の祈り 2015 (918日~30)】を開催していた被爆二世写真家の宮角孝雄さんによる講演「写真と平和」が行われました。宮角さんは、ご家族の被爆体験、ご自身が写真家として原爆ドーム前で平和を祈る人の肖像写真を撮るようになった経緯を、お話し下さいました。

2015年10月7日

中央学院大学あびこ祭 「平和をつなぐ -原爆投下から70年」

https://drive.google.com/file/d/0B63FzjF8R__9SDJpRFB1S0dMaU0/view?usp=sharing
クリックで拡大。裏面も
1024()25()に開催される中央学院大学の大学祭(あびこ祭)において、以下のような【戦後70年特別企画】が催されます。 

 ■日時 : 1025() 12001500
 ■場所 : 中央学院大学 611教室 

第一部 12:0013:30
 < 挨   拶 >
  我孫子市平和事業推進市民会議
            深山恒男
 < 講   演 >
  「平和をつなぐ -原爆投下から70年」
      法学部准教授 川久保文紀
 <被爆者体験談>
  我孫子市原爆被爆者の会   清水益雄
第二部 13:4015:00
 <シンポジウム>
  「わたしたちにとっての戦後 核廃絶と日本の役割」
         司会・進行 法学部准教授 川久保文紀
  DVD上映 「食べられなかったオニギリ」
          (孫子市原爆被爆者の会) 

  この特別企画には、我孫子市原爆被爆者の会、ならびに我孫子市平和事業推進市民会議も、被爆体験談、パネルディスカッション等への協力を予定しています。 

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中央学院大学では、法学部の「現代社会と法コース」で開設されている科目「平和学」が、広島市・長崎市の推進する【広島・長崎講座】に認定されました。
公益財団法人広島平和文化センターが認定する【広島・長崎講座】とは、被爆者の「他の誰にもこんな思いをさせてはいけない」というメッセージの意味を学術的に整理・体系化し、普遍性のある学問として若い世代に伝えるための広島市・長崎市の取組みです。 

2015年9月28日

【本の紹介】 14歳 <フォーティーン>

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書 名 14 <フォーティーン>
著 者 澤地久枝
出版社 集英社(集英社新書)
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この本は、今年の6月に出版されました。
この本に登場する「少女」は、著者である澤地久枝さん自身。
少女は、終戦を満州(中国東北部)の吉林で迎え、一年間の壮絶な難民生活を経てようやく、一家で日本に引き上げました。 

14歳になった「著者の弟の孫」に、戦争とはどういうことかを伝えたいと思ったことから書いたというこの本の最後に、著者は以下のように書いています。 

戦争の歴史がくり返されることはたえられないと思う。
十四歳の子のために、七十年前に十四歳であった少女の物語を書こうとした。そこを出発点にして、血のつながるひとたちが、どんな戦争の時代を生きたか、語ってゆこうとした。
しかし、思いは伝わっただろうか。  
 ・・・・・・・・・・
しかし遠い日の戦争が、つぎの世代の不幸にむすびついていることをいま、わたしは気づいた。
老いのくりごとではない。
少年に、わたしはもう一度話をする。この本を書いたことが、無意味にならないことに希望をつないで。 

満州事変(1931)以降、およそ30万の日本人が満州開拓移民として、満州、内蒙古、華北に入植。終戦直前ソ連参戦時に取り残され、ソ連に捕えられてシベリアに抑留された人、引き揚げの途上で命を落とした人も数知れず、無事日本に帰国しても国内の生活基盤を失っていたために辛酸を舐めた人が少なくありませんでした。
4歳で家族とともに満州に渡った著者の思春期も、戦争によって大きく踏みにじられました。
戦中体験を今の若い世代に伝えることは「ほとんど不可能に近い」と感じながら、「満州から引き揚げてきた十四歳から十五歳の日々をいま、書いた方がいいようにおもうようになった」という著者。
引き継ぐべき世代である私たちは、しっかりと耳を傾けていきたいと思います。
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年9月13日

偵察機で臨んだ太平洋戦争の日々(田中三也さんにお話を聞く)後編

7月に続いて『彩雲のかなたへ -海軍偵察隊戦記』の著者である田中三也さんに、戦争体験談を伺いました(前編は7月29日の前編記事を参照下さい)。
戦況が厳しくなる中、トラック島から潜水艦で帰国した時の様子や、フィリピンで特攻志願したことなど、あの戦争の凄まじさを知る上で大変に貴重なお話でした。 



星野我孫子市長と田中三也さん
インタビューが終わり別れ際に、田中さんは微笑みながら「戦争は、本当に嫌なものです。絶対に起こしちゃだめですね」と一言おっしゃいました。実際に戦争を体験した重みを持ったその笑顔がとても印象に残りました。 
 



五甲飛 空ゆかば
田中さんが、「五甲飛 空ゆかば」という本を我孫子市に寄贈くださいました。 
この本は、田中さんが所属されていた海軍第五期甲種飛行予科練習生(五甲飛)の生存者たちが綴った手記をまとめた本で、五甲飛の生存同期生・遺族に配布することを目的として編まれた本であり、一般書店では販売されていないものですが、田中さんが「多くの方に読んでいただきたい」とのおもいから我孫子市に寄贈くださいました。近く、我孫子市民図書館の蔵書となりますので、是非、ご覧になってください。


2015年9月6日

佐々木禎子さんの折り鶴が我孫子市に寄贈されます!

原爆の子の像の前の派遣中学生(86日)


広島平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんが病床で折った折り鶴(サダコ鶴)が、禎子さんの甥である佐々木祐滋さんから我孫子市に寄贈されることとなりました。 


「サダコ鶴」は、これまでに沖縄市や長岡市(新潟県)、郡山市(福島県)、ハワイ、ブラジルなどに寄贈されています。 
 



我孫子市への寄贈は、12月6日に開催する広島派遣中学生報告会で行われる予定です。
寄贈された折り鶴は、アビスタ内に設置する専用ケースで常設展示されます。 
 

 



2015年9月4日

宮角孝雄写真展“GROUND ZERO 平和の祈り 2015”を開催します


広島県庄原市生まれの写真家 宮角孝雄(みやかく たかお)さんの写真展を開催します。宮角さんはご自身被爆2世で、「原爆を知ろうとするのに、能書きはいらない。ただこの写真を見て、訴えるものを感じてほしい。(宮角さんホームページより)」と広島・長崎の写真を15年間撮り続けておられます。
以下のサイトをご覧ください。宮角さんが原爆ドーム前などで撮影された作品の多くを見ることができます。
 


 宮角さんは、ご自身のホームページに以下のように書かれています。

被爆の当事者である祖父や父から話を聞いたせいか、
私は原爆ドームに対してどこか恐ろしい思いを抱いていました。
しかし、1990年頃に撮影した、わが娘が原爆ドームの前に立っている写真を見たとき、そこに平和へのメッセージを感じたのです。
こうしてヒロシマでの撮影を始めました。
 

今夏8月5日から7日までの日程で広島を訪れた我孫子市内の中学生24名も、原爆ドームの前で宮角さんにお会いし、写真を撮っていただきました。中学生たちも、世界中の多くの人たちとともに、【GROUND ZERO 平和の祈り】に連なることができました。
 
 
宮角孝雄さんご本人から、このブログに以下のようなメッセージをいただきました。
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今年、我孫子市は平和都市宣言をされて30年になり、日本は「被曝(広島、長崎)」、「不戦」共に70年になります。
2013年8月6日、暑い原爆ドームの前で平和学習されていた12人の中学生に写真撮影をお願いいたしました。それが我孫子市とのご縁で、今回の写真展が実現しました。この節目の年に、『GROUND ZERO平和の祈り2015』写真展を行うことができ、大変嬉しく思います。
写真は、被曝地をバックに撮影する、平和のポートレイトです。
世界の中では現在も戦争やテロは、無くなりません。
70年間も平和を続けた日本が先頭になり平和を追求しなければいけないと思います。
皆さんと一緒に平和を考え行動していきたいと思います。
宮角孝雄
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【宮角孝雄写真展 “GROUND ZERO 平和の祈り 2015” 】は、以下の通り開催します。
是非ご来場ください。

■会  期: 2015918()930()
■時  間: 18日のみ  13001800
 19日~30 10001800
■開催場所: あびこ市民プラザギャラリー
■入場無料

2015年9月1日

【戦後70年・我孫子市平和都市宣言30年記念誌】の原稿を募集します!

我孫子市では戦後60年、65年の節目の年に平和を願う記念誌を作成してまいりました。

これまでの記念誌は、戦争・被爆を体験された方々、平和事業の広島市・長崎市派遣(平和記念式典等)に参加した市内中学生の体験、市内小中学生の平和を願う作文などを掲載し、市民の皆様に配布、我孫子市ホームページにも掲載しております。
 
戦後70年・我孫子市平和都市宣言30年にあたる本年も、平成283月頃の発行を目指して記念誌を編集・発行します。
この記念誌に、ぜひとも多くの方々からの投稿をいただきたく、以下にご案内致します。


■  記念誌原稿募集


1. テーマ
  ・ 次世代に伝えたい戦中・戦後の体験
  ・ 戦争と平和について思うこと

2. 対象
  我孫子市内在住・在学の方
  筆記困難な方には、ボランティアによる聞き取りを
    させていただきます。(要連絡)

3. 応募方法
  原稿字数 : 2,000字以内
  応募期日 : 平成27930() 必着
  応 募 先 : 以下のいずれか宛にお送り願います。
           ・郵 送     270-1192
                 我孫子市役所企画課
                                              (我孫子市平和事業推進市民会議 事務局)
           ・FAX  04-7183-0066
           ・メール    sengo70@city.abiko.chiba.jp
   応募時には、氏名(ふりがな)、生年月日、住所、電話番号を明記のこと
   問合せ先 : 04-7185—1426(我孫子市役所企画課直通)

4. その他
  聞き取りボランティア(市内在住・在学の方)を募集します!
  ご協力いただける方は、731()までに我孫子市役所企画課
  (04-7185-1426)にご連絡ください。

2015年8月25日

【広島・長崎派遣中学生リレー講座】我孫子第一小 平和の木

 
リレー講座の様子(我孫子第一小)
我孫子市の今年度平和事業のひとつとして、これまでに広島や長崎に派遣され、現在は社会人・高校生・大学生となったかつての派遣中学生たちが、市内の小学校を訪問し、広島・長崎への派遣体験を通して感じたことを伝え、原爆や戦争について意見を出しあい、小学生と一緒に平和について考えるリレー講座を実施しています。


葉っぱのメッセージを「平和の木」に貼り付ける
リレー講座メンバー
第一回リレー講座は、6月20日()に我孫子第一小学校で実施しました。
リレー講座を受講した6年生に葉っぱの形の紙に平和へのメッセージを書いてもらい、リレー講座講師グループで大きな「平和の木」に貼り付け、7月13日()に第一小学校に届けました。この「平和の木」は、今、子どもたちが見ることができるように、第一小学校内下駄箱付近に掲示してもらっています。
今年1年間、この木が市内の小学校でたくさん育ちますように。 

 
完成した平和の木
◎リレー講座講師からのメッセージ◎ 

◆ 今年で戦後70周年を迎え、戦争を経験し、伝える方が少なくなっている中、派遣中学生として長崎で学んだことを後輩に伝えることができて、よかったと思います。授業中、児童はみな真剣な眼差しを私に向けてくれていて、「幸せって?」「平和って?」について、考える姿はとても印象に残っています。平和について考えること、平和について伝えることが、未来に繋がると考えていますので、『第1回リレー講座』だけに留まらず、私なりにできることを、これからもやっていきたいと思います。(和香菜) 

葉っぱに書かれたメッセージ
◆ 今回は小学生の前で授業をするというとても貴重な経験をさせていただきました。最初はうまくいくか不安でしたが、何度も練習を重ねて準備を整えてきました。「人に教える」とはどうすればいいのかわからなかったですが、平和について思いを伝えたいとだけ考えて授業をしました。私の思いの一部だけでも伝わったならうれしいです。そして、ぜひ周囲の人へ、一人一人の平和への思いを伝えていってくれたらと思います。(大屋貴義)

2015年8月18日

我孫子市 被爆70周年平和祈念式典が開催されました


「市民の皆さんとともに核兵器の廃絶と平和の
大切さを次の世代に繋いでいく取り組みを
進めていきたい」と語る星野市長
815日、【被爆70周年平和祈念式典】が、我孫子市原爆被爆者の会と我孫子市の主催により、手賀沼公園平和の記念碑前で開催されました。
160名が集まった式典では、黙祷、広島平和記念式典に参加した中学生による報告、我孫子市平和都市宣言の読み上げに続いて、派遣中学生が広島平和記念公園から採火、持ち帰った「平和の灯」を、手賀沼公園平和の記念碑横に新設したガス灯に灯す点火式が行われました。


広島派遣を報告する市内中学生24

手賀沼公園に灯された「平和の灯」は、核兵器が廃絶されるまで常時点灯され、核兵器のない平和な世界への我孫子市民の強い願いをあらわす新しいシンボルとなります。



「平和の灯」の点火
式典の模様は報道各社によっても紹介されています。是非ご覧ください。





手賀沼公園マップ(クリックで拡大表示)

  ■平和祈念式典の報道

【絵本の紹介】 いわたくんちのおばあちゃん


85日から7日まで広島を訪れた我孫子市内中学生24名は、6日の平和記念式典参列後、本川小学校に行きました。
本川小学校は爆心地から410メートル。爆心地から一番近い学校です。この小学校も被爆でたいへん大きな被害を受けましたが、被爆当時の校舎の一部が今でも保存されており平和資料館となっています。
 


 
岩田さんと息子さん。右奥に見えている
のが被爆当時のまま保存されている校舎
この資料館を案内してくださったのが、ボランティアガイドの岩田さんとその息子さん。
息子さん(いわたくん)は本川小学校の卒業生。岩田さん(お母様)は息子さんがこの学校の生徒だった時のPTA活動を通じて、本川小学校平和資料館のガイドを始めたそうです。

息子さん(いわたくん)のおばあちゃん(ちづこさん)は、原爆で家族(両親と妹3人)を亡くされています。このちづこさんのことが2006年に「いわたくんちのおばあちゃん」という絵本になりました。

19458月の初め、広島にも空襲が迫っているのではないかと家族全員で田舎に疎開することを決め、自宅に写真館の人を呼んで家族写真を撮ってもらったその何日か後に原爆が投下されました。
戦争が終わって何ヵ月か経ってから、ちづこさんを見つけた写真館の人が、ちづこさんに渡してくれたのだそうです。家族6人みんなで撮った写真、その写真を見ることができたのは、ちづこさん一人だけでした。

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 書 名 いわたくんちのおばあちゃん
 著 者 天野夏美()、はまのゆか()
 出版社 主婦の友社
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「いわたくんちのおばあちゃん」は、我孫子市民図書館に蔵書があり、我孫子市視聴覚ライブラリーにDVDもあります。
是非、手にとってみてください。


(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)