2015年7月30日

【ご案内】 被爆70周年我孫子市平和祈念式典・映画『アオギリにたくして』上映会

平和祈念式典案内(表)
本年も、以下の通り「被爆70周年 平和祈念式典」を開催します。

 ■日 時:平成27815() 9301130
 ■場 所:手賀沼公園内「平和の記念碑」前(雨天実施)
 ■内 容:黙とう、献花、「平和の灯」点火式 等

式典後には、広島平和記念公園の被爆アオギリの木の下でたくさんの子どもたちに被爆体験を語り継いだひとりの女性の物語「映画 アオギリにたくして」の上映会を開催します。

 ■上映会日時:平成27815() 1130
 ■場   所:アビスタホール
 

平和祈念式典案内(裏)
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◆「平和の灯」について
我孫子市は、広島市平和記念公園内の「平和の灯」から分火を受け、手賀沼公園内「平和の記念碑」横で常時点灯することとしました。
広島の「平和の灯」は、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」と1964年、記念公園内原爆死没者慰霊碑の近くに設置され、現在も燃え続けています。
我孫子市での「平和の灯」の分火は、千葉県内では初めてのことであり、これまで国内外16ヶ所に分火されています。 


◆「被爆アオギリ」について
手賀沼公園内に、広島市から譲り受けた「被爆アオギリⅡ世」が、同じく長崎市から譲り受けた「被爆クスノキⅡ世」とともに植えられています。 
クリックで拡大表示

◆映画『アオギリにたくして』
   予告編動画などが観られます。

『アオギリにたくして』原作

   -【本】-----------------------------------
    書 名            アオギリにたくして
    著 者            中村柊斗
    出版社            徳間書店(徳間文庫)
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2015年7月29日

我孫子市原爆被爆者の会

平和の祈り折り鶴展で市職員と
皆さんは我孫子市に原爆被爆者の会があるのをご存知でしょうか。
「我孫子市原爆被爆者の会」は昭和54年(1979年)、我孫子市在住の広島・長崎で被爆した方々、約160名で発足しました。
設立の目的は、「会員の福利厚生 健康向上に協力し合い、併せて再び原爆の惨事が繰り返されないように世界平和のため寄与する」というもので、会員の方々はこれまで数多くの平和活動をなさっています。 

昭和60年、当時の会長が広島市に懇願し、被爆した旧市庁舎の敷石と側壁を譲り受け、市役所が手賀沼公園に記念碑を作りました。これが「平和の記念碑」です。
毎年8月にはこの碑の前で一般市民の方にも参加して頂き、平和祈念式典が開催されています。(今年は8月15日(土)9時30分から開催されます) 

小学生向け被爆体験講話の様子 (戦後60年)
他にも毎年「原爆写真と平和祈念の折り鶴展」を アビスタで開催したり、我孫子市平和事業推進市民会議にも参画したりと、積極的に活動をなさっています。
さらに、会員の方々が市内の小中学校で、被爆者としての体験談をもとに、戦争の悲惨さと平和の尊さを子供たちに伝えるという語り部活動もしてこられました。 

戦後70年を迎えて皆さんご高齢となり、会員数は31名になったそうですが、会員の方々は今でも「原爆の悲惨さの記憶を風化させないために、若い世代に伝えていく活動を可能な限り続ける」という強い決意のもと、活動を続けていらっしゃいます。
心から声援を送りたいと思います。 

(我孫子市平和事業推進市民会議・M男)

『彩雲のかなたへ』著者 田中三也さんインタビュー

田中三也さん
『彩雲のかなたへ 海軍偵察隊戦記』の著者で、我孫子市内にお住まいの田中三也さんに戦時中の偵察隊体験、そして平和への思いを伺いました。
田中さんは、戦時中のご体験を細かなところまでよく記憶しておられ、現在91歳とは思えない淀みなく、そしてとどまるところを知らない口舌でお話し下さいました。
田中さんには、いろいろな方が、その貴重なお話を伺いに来られるようで、特に戦後70年にあたる今年は、マスコミ等からも取材を受けておられるとのことです。
このたび機会をいただいて田中さんからお伺いさせていただいた内容をインタビュー記録としてまとめましたので、是非ご一読いただきたいと思います。 

 

-【本】----------------------
書 名 彩雲のかなたへ
  – 海軍偵察隊戦記
著 者 田中三也
出版社 光人社
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【本の紹介】 原爆供養塔

-【本】--------------------
 書 名       原爆供養塔
 著 者       堀川 惠子
 出版社       文藝春秋
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広島市の平和記念公園、三角形に尖った中洲の北端、T字型という珍しい形であることから米軍機の原爆投下目標点となったといわれる相生橋。その相生橋から近いところに原爆供養塔があります。この供養塔には、被爆者七万人の遺骨が眠っています。被爆前までこの地にあった浄土宗・慈仙寺の前に、被爆直後より市内から多くの遺骨が運び込まれ、1955年に現在の原爆供養塔が築かれました。

供養塔ができて後40年余にわたって、供養塔に日参し、供養塔周辺を掃き清め、平和記念公園を訪れる人に語り部として広島の原爆を語り継いできた佐伯敏子さんという方がいらっしゃいます。2015年、今年で96歳になるそうです。

「原爆供養塔」を今年5月に出版した著者堀川惠子さんは、元広島テレビ放送の報道記者。佐伯敏子さんに出会った堀川さんが書いたこの本は、親族13人を原爆で亡くした佐伯敏子さんが、原爆供養塔に通いつめ、名前がわかっていながら引取り手がなかった遺骨の遺族を探し続けて、「ヒロシマの大母さん」と呼ばれるようになったその半生を綴り、さらに病に倒れた佐伯さんの意志を継ぐかのように遺骨の身元探しを始めて、多くの人を訪ねて、初めて本当のヒロシマと向き合ったという著者自身の体験を伝えています。
70年を経ても、決して終わることのない被爆の重い現実が伝わります。
是非、読んでいただきたい一冊です。 


今夏、広島市は原爆供養塔の内部を10年ぶりに報道各社に公開しました。
 
広島市は、氏名が判明しながら遺族のわからない遺骨について納骨名簿を公開しています。

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年7月26日

佐々木祐滋さん我孫子へ

佐々木祐滋さんが、我孫子を訪れました! 

広島平和記念公園内にある「原爆の子の像」のモデルとなった、佐々木禎子さんの甥で、ミュージシャンの佐々木祐滋さんが、5月19日に我孫子市を訪れました。 

佐々木さんは、23年度と24年度の派遣中学生発表会で、佐々木禎子さんについての講演や、「INORI」などを歌ってくださいました。 

今回の訪問で、佐々木さんは、手賀沼公園にある「平和の記念碑」に献花し、原爆で犠牲になられた方のご冥福と平和を祈念されました。 
また、公園内に植樹した「被爆アオギリ2世」と「被爆クスノキ2世」もご覧になり、我孫子で平和事業が熱心に行われていることを心から喜ばれていました。

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佐々木祐滋さんFACEBOOK
佐々木祐滋さんは、おばである佐々木禎子さんの物語を語り継ぐために、音楽、講演などを通して活動されています。
祐滋さんが禎子さんの想いを綴った楽曲「INORI」は、2010年のNHK紅白歌合戦で歌手クミコさんによっても歌われています。 

佐々木祐滋さん [INORI]
 
佐々木禎子さんの兄である佐々木雅弘さん(祐滋さんの父)と祐滋さんが禎子さんの生涯を伝え、おもいやりのこころを未来に語り継ぐために運営しているNPO法人です。
 
 
 
禎子の千羽鶴
 
 ■本の紹介「禎子の千羽鶴」

-【本 (戯曲)-------------------
書 名 禎子の千羽鶴
著 者 佐々木雅弘
 出版社 学研パブリッシング
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佐々木禎子さんの兄佐々木雅弘さんが書いた禎子さんと家族の物語。
小学校6年の秋の運動会リレーで元気に走り切って優勝した一年後に12歳で亡くなるまで、家族をはじめ周囲の人たちをおもいやり、千羽鶴を折り続けた禎子さんと、禎子さんを心から愛していた家族が描かれています。20137月出版。 

禎子さんがモデルとなった原爆の子の像
 
 
(佐々木祐滋さん我孫子訪問の記事は、6月24日に一度掲載しておりますが、記事に追記して再掲します)
 
 
 

2015年7月22日

広島の女性が英議会で被爆証言

716日に広島の被爆女性が、スカイプ(インターネット電話)を通じて、イギリス議会で被爆体験を証言したというニュースが報道されました。 

証言されたのは、爆心地から2.3㎞の軍需工場に学徒動員されていて被爆された当時14歳の女性。軍需工場では、飛行機のプロペラを作っていたそうです。
倒壊した建物の下からはい出し、爆風で割れたガラスが腕に刺さった痛みで生きていることを実感されたこと、ちぎれた腕を持って逃げていた中学生が亡くなるのを目撃されたこと、別の場所で被爆した父親が娘を探して3日間広島市内を歩き回り、1年半後に血を吐いて亡くなられたことなどを証言、広島、長崎を二度と繰り返さないでほしいと訴えられました。 

英議会上院議員ら約80名が証言に聞き入ったそうです。
証言を聴いた英上院顧問は「核兵器廃絶のために共に努力したい」と語ったとのこと。
この証言は、英国内で平和運動に取り組む英上院特別アドバイザーの方が、今年4月に広島平和文化センターを訪れたことが契機となって、実現したのだそうです。 

70年を経ても、まだまだ伝えられるべき真実があり、真実を知った人の新しい決意・行動が生まれるのだということに、希望を見出していきたいと思います。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年7月16日

被爆アオギリ二世と被爆クスノキ二世

被爆アオギリ二世

 手賀沼公園の水辺近くに、平和の記念樹が2本並んで植えられています。
1本は広島市から譲り受けた「被爆アオギリ二世」。もう1本は長崎市から頂いた「被爆クスノキ二世」です。 

 アオギリ二世は広島爆心地から1.3キロメートルで被爆したアオギリの子孫。クスノキ二世は長崎の爆心地から800メートルで被爆したクスノキの子孫です。
 
 当初は、原爆投下後は数十年間草木も生えないと言われていましたが、アオギリもクスノキも、奇跡的に生き延びて新たな葉を芽吹き、その姿は打ちのめされた人々に生きる勇気と希望を与えました。 


被爆クスノキ二世
広島市と長崎市は、これらの親木から種を取って苗を育て、全国の自治体に寄贈して下さっています。
我孫子市も3年前の2012年(平成24年)8月11日、両市から頂いたこの貴重な苗を、被爆67周年平和祈念式典」の中、星野市長をはじめ我孫子市原爆被爆者の会メンバーや長崎派遣中学生たちの手によって植樹しました。 

 「平和」と「命」のシンボルとして、広島・長崎と我孫子の架け橋として、手賀沼の光と涼風を受けながらアオギリとクスノキが大きく育ってくれることを願っています。 
(我孫子市平和事業推進市民会議・M男) 

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歌手の福山雅治さんが、長崎の被爆クスノキを題材にした「クスノキ」という歌をつくっています。アルバム「HUMAN」の1曲目におさめられています。長崎生まれの福山さんは、被爆クスノキの歌をつくろうとずっと考えていたそうです。生命の尊さを歌い上げている福山さんの「クスノキ」、是非一度聞いてみてください。

中央学院大学「平和学」が【広島・長崎講座】に認定


  中央学院大学(我孫子市久寺家)法学部の正規科目「平和学」(担当:川久保文紀准教授)が、広島市・長崎市が推進する【広島・長崎講座】に認定されました。

公益財団法人広島平和文化センターが認定する【広島・長崎講座】とは、被爆者の「他の誰にもこんな思いをさせてはいけない」というメッセージの意味を学術的に整理・体系化し、普遍性のある学問として若い世代に伝えるための広島市・長崎市の取り組みです。 

中央学院大学では、1024()25()開催の大学祭(あびこ祭)でも、戦後70年特別企画として被爆者による体験談や、世界の核の現状をめぐる学生パネリストによるシンポジウムなどを企画しているとのこと。ご注目ください!

2015年7月8日

「焼き場に立つ少年」とジョー・オダネル氏

坂井貴美子氏(故ジョー・オダネル氏夫人) 提供
 この写真を初めて目にした時、何も知らない私はただ微笑ましく感じました。戦時中、忙しい親の代わりになって幼い弟を負ぶってあやしている真面目そうな少年。それにしても弟がずり落ちそうだなと。
しかし・・・写真の解説を読んだとき、私の体を衝撃が走りました。 

この写真は、従軍カメラマンのジョー・オダネル氏が原爆投下後の長崎で撮影したもの。タイトルは「焼き場に立つ少年」。
 少年は亡くなった弟を焼いてもらうために、急ごしらえで作られた焼き場の前に立ち、順番を待っていたのです。
年の頃は10歳位でしょうか。直立不動で両手をぴんと伸ばし、口を真一文字に結んでいます。順番がきて弟の遺体が焼かれている間、少年は炎を食い入るように見つめ、噛みしめられた唇からは血がにじんでいたそうです。
 火が静まると少年は一人沈黙のまま、焼き場を去って行きました。その時オダネル氏はその少年の肩を抱いて話しかけたい衝動に駆られたと後に回想しています。 

 オダネル氏は広島・長崎の状況を目の当たりにして、原爆のあまりの惨劇に大きなショックを受けました。そしてアメリカに帰国してからは個人で隠し撮った写真を、40年以上の長きにわたって屋根裏のトランクの中に封印したのです。
 しかし反核運動の彫像に偶然出会ったことをきっかけに、1990年、オダネル氏はトランクを開け、原爆の惨状を世に訴えることを決意しました。 

 2007年、オダネル氏は85歳の生涯を閉じました。奇しくもその日は8月9日。長崎に原爆が投下された日でした。
 美智子皇后陛下はその年の10月、お誕生日の記者会見でオダネル氏の死に関して触れ、「焼き場に立つ少年」がいまも目に残っており、世界平和を願わずにはいられませんとコメントされました。 


(我孫子市平和事業推進市民会議・M男)