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2022年7月31日

『月刊社会教育』誌上で我孫子市平和事業を紹介

 我孫子市平和事業の取組みを、旬報社『月刊社会教育 8月号』誌上で紹介させていただく機会をいただきました。

我孫子市での取組み、特にリレー講座と演劇(我孫子中学校)について、活動に取組んできた各世代の方々にその思いを綴っていただいています。

『月刊社会教育 8月号』は、我孫子市民図書館(アビスタ)など公共図書館でも閲覧することができます。ぜひ、手にとってご覧いただきたくご紹介申し上げます。  


■旬報社ホームページ:『月刊社会教育 8月号』

https://www.junposha.com/book/b609609.html

2021年12月4日

【本の紹介】 平和のバトン 〜広島の高校生たちが描いた8月6日の記憶〜

 

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  書 名 平和のバトン

      〜広島の高校生たちが

描いた86日の記憶

  著 者 弓狩 匡純

  出版社 くもん出版

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こんにちは!

我孫子市平和委員の根本です。

 

今回は皆様に紹介させて頂きたい本があり、ブログを通してお伝え出来ればと思います。私がこの本に出会ったのは今年の夏休み、読書感想文の本を決めようとしていた時でした。学校指定のオススメ本一覧を見ていると、とても馴染みのあるワンフレーズが目にとまりました。それは本の題名でもある「平和のバトン」です。

 

私たち平和委員は、自身の派遣での学びを活かして小学生に向けたリレー講座を行っています。戦争について語れる人が少なくなってきている中で、教えていただいたことを次の世代に教えていく、まさに「平和のバトン」を受け継いでいくということです。

 

この本では戦争を知らない広島の高校生達が被爆者の方々の証言を元に、当時の様子を描きあげていく様子を取り上げています。聞いた話のみで作品を完成させなければいけない学生たちには悩みや葛藤も多く、壁にぶつかることも沢山あったそうです。ですが、そんな彼らたちが青春を賭けてまで絵に情熱を注いだのには「平和のバトンを繋げたい」という強い思いがあったからでした。

 

「青空を見て悲しみが込み上げた」

これは本の中で出てきたセリフです。

青空という言葉を聞いて暗いイメージをもつ方はおそらくいないと思いますが、ここでは青空と共に悲しみが表現されています。

友達や家族を失った少女が原爆投下の翌日、1人で空を見上げると昨日のことがまるで嘘のように晴れ渡っていたそうです。

なぜ私だけ生きているのだろうという不安に潰されそうになりながらも一生懸命生きていくことを誓います。

 

この本を読み終えた時、まるで自分のために書かれた本のようにに感じるほど、共感できる部分や自分自身と重なることが多いお話でした。戦争を歴史の一部としか捉えられない子供が増えている中で私たちが伝え続けていくこと、それを「〇〇を〇〇に」という言葉によって表されています。皆さんは何が当てはまると思いますか?正解は本の中にあります。ぜひ、沢山の方にこの本を読んで頂けたら嬉しいです!!

1度起きたことは、忘れてしまった時にまた起きると言われています。ですが、今をその「忘れてしまった時」の時代にしないためにも平和委員としての任務をしっかり果たしていこうとこの本を読んで改めて感じることができました。青空を見て悲しむ人がいなくなるよう願います。





2021年1月6日

【本の紹介】チンチン電車と女学生 1945年8月6日・ヒロシマ

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  書 名 チンチン電車と女学生

      194586日・ヒロシマ

  著 者 堀川惠子・小笠原信之

  出版社 講談社文庫

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 この作品は戦争について、当時1417歳だった女子たちの実体験を基に書かれている。

作者である堀川さんが広島テレビの特集で、広島電鉄(広電)の取材で広電の車庫に入っていた車両を眺めていた際に出会ったチンチン電車によって展開される。広島の現役(2015年当時)のチンチン電車で最も古い650形を皮切りにして、「幻の女学校」すなわち物語の舞台となる「広島電鉄家政女学校」に堀川さんが興味をもったことから始まった。

かつて実際に女学校の生徒であった方々の話を基盤に、一人一人がその学校に通うことになったいきさつから、寮生活の実態、淡い恋物語、原爆の被災当時まで、戦時中の暮らしを肌で感じ取ることができる。 

女子高生である私は同世代の女の子が体験した戦争の記憶に衝撃を受けた。

戦争の悲しみを風化させないためにも、より多くの若い人に読んでもらいたい。

 (我孫子市平和事業推進市民会議 西村百夏)

2019年12月18日

【本の紹介】 光に向かって這っていけ

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  書 名 光に向かって這っていけ -核なき世界を追い求めて
  著 者 サーロー節子、金崎由美
  出版社 岩波書店
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「光に向かって這っていけ」はICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞授賞式で被爆者としてスピーチをしたサーロー節子さんの自伝です。そして、被爆後74年間「ヒロシマの心を世界へ」と核なき世界を追い求めて行動してきた軌跡です。2018年夏、中国新聞朝刊に掲載された節子さんの自伝連載「生きて」に、中国新聞社(現在はヒロシマ平和メディアセンター)の金崎由美さんがカナダのトロントにある節子さんの自宅を訪ねて、また節子さんの帰国の折にインタビュー取材を重ねて加筆し、新聞社、ヒロシマ平和メディアセンターの協力を得て20197月に岩波書店より出版されました。「光に向かって這っていけ、諦めるな、光が見えるだろう?」86日午前815分、広島女学院高等女学校の2年生で、第二総軍司令部の暗号班に配置されこれから作業という時。爆風で倒壊した建物のがれきの下で見知らぬ人にかけられた言葉にそれからの人生を支え続けられた節子さん。「あの日」生と死をわけたものはなんだったのか。生き残った、その意味を求め続けました。 「アクティビズム(行動主義)」の出発点となる広島流川教会の谷本清牧師や夫であるカナダ人のジム・サーローさんとの出会い。また、ICAN・ピースボートの川崎哲さん、NPT(核拡散防止条約)などの世界の平和活動家たちと出会い、連携して活動を続けてきた不屈の人の全貌が伝わります。「ノーベル平和賞授賞式での感動的なスピーチはどこから」。それは、節子さんの行動と強い意志から生まれた言葉のもつ力であると。中国新聞社はニューヨーク支局を置いていたときもあり、サーローさんの北米での活動は早くから紙面上で紹介されていたそうです。 金崎由美さんはあとがきにこのように綴っています。 「多文化主義の国カナダといえども、マイノリティーである日本出身女性で子育てしながら、仕事と反核運動の両方で先駆的に活動した、その努力と突破力は並大抵のものではなかったろう。」20201月、88歳になりさらに行動し続ける節子さんの人生に触れていただけたらと思います。 
(我孫子市平和事業推進市民会議 見城)

2018年12月16日

【絵本の紹介】シュモーおじさん

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  書 名 シュモーおじさん
  制 作 シュモ-に学ぶ会
  編 集 とがわ こういちろう
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   このフロイド・シュモー氏はアメリカ合衆国の著作家で、平和活動者でした。今から73年前に太平洋戦争が終戦し、現在では日本とアメリカは日米同盟により固く結ばれています。フロイド・シュモー氏は広島に原爆投下され、“アメリカ国民の一人として広島に何か出来ることはないか”と考え、広島に家屋を建設しました。家屋建設に取り掛かる際も当時の日本人はアメリカに対して当然よく思っておりませんでしたが、フロイド・シュモー氏は1948年から始めた家屋建設は、1952年には21戸建設されました。一人のアメリカ人が広島の為に、最初は一人で家屋建設し、徐々に仲間を誘い、日本人のボランティアも家屋建設に参加するようになりました。

フロイド・シュモー
現在では、シュモー氏が建てた家屋は1戸しか残っておらず、2012年に広島平和記念資料館の付属展示施設である『シュモーハウス』として保存されています。 この作品は、シュモーに学ぶ会が制作し、発刊しています。73年前に広島に原子爆弾が投下されたことを遠い昔のことにしてしまいつつある現代に、広島には、沢山の大切な場所や被爆者の為に尽力して下さった人がいることを伝えたいと本で紹介しています。
この作品は、小さい子どもたちにお母さんとお父さんと一緒に読んで欲しいと強く感じます。73年前に何が起きたのかは勿論、きっかけはどうであれ平和について考える時間を一人ひとりが持って欲しいと感じます。

拙い文章でしたが、最後までお読み頂きありがとうございます。
(我孫子市平和事業推進市民会議委員 寺原 正一郎) 
 
   フロイド・シュモー氏については、以下の記事もご参照ください。 
           朝日新聞(2016年6月15日):シュモーさん功績 絵本で次世代へ

2017年10月5日

【本の紹介】ナガサキノート

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  書 名 ナガサキノート
      若手記者が聞く被爆者の物語
  編 者 朝日新聞長崎総局
  出版社 朝日新聞出版(朝日文庫)
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「ナガサキノート」は、朝日新聞長崎総局が、長崎原爆の被爆者の方々に取材し、その一人ひとりの人生をテーマに、2008810日から一日も欠かさずに毎日、長崎県内版に掲載している連載記事で、既に連載3000回を超えているそうです。
今回紹介する朝日文庫「ナガサキノート」は、この連載記事に20095月までに掲載された31人の被爆者の方々の計270回の記事を本にまとめたものです。 

この本の中で、被爆者31人の方々の人生が、194589112分を中心に綴られています。それぞれの人が、どのような暮らしの先に89日を迎えたか。そして、89日の被爆後どのような人生を過ごされてきたか。
31人が迎えた長崎でのそれぞれの89日。被爆した場所から避難した道のり、爆心地に向けて家族を探しに行った道のり。31人の方々の被爆前後の記録には、同じ町の名が何度も登場し、同じ兵器工場や長崎医科大学もでてきます。
31名の方々がその日辿った道は交わっていたかもしれませんが、それぞれに、それまでの暮しがあり、家族があり、そして一人ひとりのその後の人生がありました。 

「ナガサキノート」は、20代、30代の記者たちが取材し、執筆したのだそうです。この本を読んでみると、取材の時点で60代半ばから80代に達していた多くの被爆者の方々に、若い新聞記者たちが取材し、記録しているというそのことだけでも、たいへん意義深い取組みなのだと思えます。
「ナガサキノート あの日、人々の足取り」
(クリックでサイトにアクセスできます)
朝日新聞長崎県内版への「ナガサキノート」連載が現在も続いている一方、朝日新聞DIGITALには、「ナガサキノート あの日、人々の足取り」というページが公開されています。爆心地数キロ圏内で被爆した約150人の方々が、194589日にどのような足取りを辿られたか、3Dの地図上に再現されています。地図上から、お一人おひとりの証言を閲覧することもできます。 

朝日文庫「ナガサキノート」、朝日新聞DIGITAL「ナガサキノート あの日、人々の足取り」、ぜひご覧になってみてください。
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2017年8月30日

【本・映画の紹介】いしぶみ ―広島二中一年生全滅の記録

-【本 】----------------------
書 名      いしぶみ
編 集      広島テレビ放送
 出版社      ポプラ社
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-【映画】--------------------
タイトル いしぶみ
出 演      綾瀬はるか
監 督      是枝裕和
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194586日午前815分、建物解体作業のために本川土手に集合していた旧広島県立広島第二中学校(現広島県立広島観音高等学校)の生徒321名、教師4名の頭上で原爆が炸裂しました。この場に集合していた全員が命を失いました。爆心地から500メートルほどの距離でした。
広島テレビは、この生徒321名の最期の様子を、その朝出掛けていく息子を送り出した親たち、原爆が落とされた広島市内に息子を探し、自宅に連れ帰ってその最後をみとった親たち、いくら探してもわが子を見つけられなかった親たちなどに丹念に取材し、1969年に広島市出身の女優杉村春子さんが、遺族の証言や生徒の最期の記録を朗読するテレビ番組として放送しました。その記録が1970年初版として刊行され、何度も版を重ねているのが、この「いしぶみ」という本です。 

そして2015(戦後70)、杉村春子さんに代わって、同じく広島市出身の女優綾瀬はるかさんによる朗読で、この番組がリメイク、放送され、そして映画として、全国で上映会が開催されています。

広島二中慰霊碑(広島平和記念公園)に刻まれた犠牲者の名前
このリメイク版では、ジャーナリストの池上彰さんが、あの日たまたま体調を崩していて作業に出ず、難を逃れた元生徒や、犠牲になった教師のご遺族を取材する模様も、収録されています。 

生徒321名のうち、広島テレビが取材できた226人の一人ひとりについて、その最期の様子やご遺族の方々の言葉が丁寧に伝えられています。 

本の最後に掲載されている広島テレビのプロデューサーによるあとがきは、以下のような文章で締めくくられています。 

日本にも戦争の時代があって、こんな悲しい出来事がありました。広島の悲劇を二度とくりかえすことのないよう、原水爆兵器をみんななくした、そして平和というものがどんなに大切なことかを、いつも考えたいのです。
みなさんが大きくなったとき、そしてみなさんがお父さんやお母さんになったとき、もう一度、この本をよみかえしてみてください。 

本「いしぶみ」は、我孫子市民図書館に蔵書があります。ぜひ、手にとってみてください。 

映画「いしぶみ」の公式サイトは、以下の通りです。
映画『いしぶみ』公式サイト  http://ishibumi.jp/
全国で開催されている自主上映会のスケジュールは、以下のサイトで紹介されています。
上映会案内  http://ishibumi.jp/jyouei.php 

(我孫子市平和事業推進市民会議  恒)

2016年10月19日

【本の紹介】 綾瀬はるか 「戦争」を聞く



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 書 名 ① 綾瀬はるか 「戦争」を聞く
     ② 綾瀬はるか 「戦争」を聞く Ⅱ
 著 者 TBSテレビ『NEWS23』取材班 編
 出版社 岩波書店(岩波ジュニア新書)
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紹介する二冊、①はTBSテレビで放送された戦後60年記念企画「ヒロシマ」(2005)および、『NEWS23クロス』のシリーズ「綾瀬はるか『戦争』を聞く」(20102012年放送分)、②は同『NEWS23』のシリーズ「綾瀬はるか『戦争』を聞く」(20132015年放送分)に取材内容を追記して書籍化したものです。
女優の綾瀬はるかさんは、ご自身が広島市の出身。2005年にTBSテレビ戦後60年記念企画「ヒロシマ」で故・筑紫哲也氏とナビゲータを務めた際に、テニアンやサイパンの戦跡を取材、ご自身のお祖母様の被爆体験も初めて聞いたそうです。(姉を原爆でなくされたお祖母様の話は、②に収録されています。) 

この二冊で紹介されている戦争・被爆を体験された方々への綾瀬さんのインタビュー(「聞く」)は、広島、長崎から、沖縄、奄美、ハワイ、さらに、広島の原爆と東日本大震災の津波をともに体験された方にお話を聞くため陸前高田市にまで及んでいます。
綾瀬さんは1985年の生まれ。この二冊に掲載されている多く方々から伺った戦争・被爆体験のお話は、ちょうど二十歳代にあった綾瀬さん10年間の「聞く」の積み重ねにあたります。綾瀬さんは、2010年からだけでも40名以上の方々にお話を伺ったそうです。
なかには、ご自身のつらい体験を話すことを躊躇された方もいたそうです。そんな時、綾瀬さんは「今ここでこのお話を記録させてもらわないと、もう二度と聞けないかもしれない、とても大事なことを私は教えていただいているんだ」と思われたそうです。お年寄りに寄り添う綾瀬さんの人柄がお話しくださる方の心を開いたこともあったようです。 

お話を聞かせてくださった方のなかには、その後まもなく亡くなられた方もいらっしゃいます。戦争や被爆の体験をされた方々から直接お話を伺える機会は、ますます限られてきます。であればこそ、二十歳代の綾瀬さんが取り組んだ【「戦争」を聞く】 を、多くの中高校生に共有していただきたいと思います。
たいへん読みやすく、とても心に響く本です。我孫子市民図書館に蔵書がありますので、ぜひ借り出して読んでみてください。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年9月20日

【コミックの紹介】 この世界の片隅に


-【コミック】-----------------------------
  書 名 この世界の片隅に (上・中・下)
  作 者 こうの史代
  出版社 双葉社
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紹介するコミックは、こうの史代さんの『この世界の片隅に(上・中・下)』。
こうの史代さんの作品は、昨年も本ブログで、『夕凪の街 桜の国』を紹介させていただきました。
『この世界の片隅に』は、こうの史代さんが『夕凪の街 桜の国』に続いて広島を描いた作品。
広島市江波から呉に嫁いだ主人公すずは、嫁ぎ先で新しい家族たちとのささやかな暮らしをつくりますが、戦況は悪化の一途、軍港のある呉にはたび重なる空襲、そしてすずの実家がある広島には原爆が投下されます。
こうの史代さんのほのぼのとした絵とストーリー展開の中に、戦争の惨禍が色濃く語られます。
この作品は、アニメーション映画として、今年1112日に公開されるそうです。
      映画『この世界の片隅に』公式サイト 

こうの史代さんは、ご自身広島市の出身。『夕凪の街 桜の国』や『この世界の片隅に』を描いたご自身の気持ちを、朝日新聞社が毎年発行している教育特集「知る原爆」の中で、次のように語っています。  
「この世界の片隅に」では、戦時中の普通の生活をみてほしいと思って、あえて穏やかな暮らしを描きました。ふつうの人たちが戦争に巻き込まれてしまう。二度と戻ってこない当たり前の日々がどんなに尊いかを感じてほしい。 
 
こちらもぜひご覧ください。
       朝日新聞「知る原爆」 
            (「知る原爆」紙面イメージ(2016年版) こうの史代さんから)
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年9月4日

【本の紹介】 ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家

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  書 名 ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家
  著 者 クラウス・コードン
  出版社 偕成社
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エーリッヒ・ケストナーの名前を、「エーミールと探偵たち」や「飛ぶ教室」を読んでご存知の方は多いと思います。
ケストナーは、18992月にドイツのドレスデンで生まれました。14歳の時(1913)、ケストナーは教師になることを目指して教員養成所に入学しますが、先生や上級生に絶対服従、規則で生徒たちをがんじがらめにするこの養成所の空気がいやでたまりませんでした。翌1914年に第一次大戦が始まり、ケストナーも1917(18)に徴兵されますが、心臓を病んで除隊。ドイツ敗戦後、教員養成所から大学進学を目指してギムナジウムに転校、1919年ライプツィヒ大学に入学して、文学、演劇、哲学を学びながら、新聞編集委員の仕事を始め、詩や舞台批評を発表し、やがて詩人として名が知られるようになります。ケストナーの詩や批評は、ヒューマニズムに裏づけられた社会風刺やパロディに満ちた作品として世の人びとに受け入れられました。
 
そうした中、ドイツ国内で「ドリトル先生」シリーズや「くまのプーさん」などの翻訳書を発行していた出版社から、子ども向けの本を書くことをすすめられて書いたのが、有名な「エーミールと探偵たち」。この本は1929年に発行されると瞬く間に人気を博し、さまざまな言語に翻訳され、世界中の子どもたちに親しまれるようになりました。
しかし、第一次大戦後世界でもっとも民主的といわれたヴァイマル憲法を制定したドイツで、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が台頭、1933年にはとうとうヒトラーが政権を握ります。
ケストナーと含むドイツの多くの文学者たちは作品を書くことを禁じられ、トーマス・マン、フロイト、ゴーリキー、ヘミングウェイなど数多くの国際的知識人・作家の本がドイツ国内で焼かれました(焚書)。ケストナーの本も火に投げ込まれました。
ナチスに反発する多くの知識人・作家が弾圧され、逮捕者も出るようになり、ドイツから海外に亡命する知識人が少なくなかった中で、ケストナーは、ドイツ国内に留まります。 

ヒトラーが政権をとった1933年に発表された「飛ぶ教室」に、ケストナーの平和に対する強い意志がこめられた文章があります。
「飛ぶ教室」の中で主人公である少年たちの学校のクロイツカム先生が、少年たちに次のように言います。 

平和を乱すことがなされたら、それをした者だけでなく、
止めなかった者にも責任はある。 

多くの本を焼いたナチスは、ケストナーのことも苦々しく受け止めていたはずですが、ケストナーが世界的に、特に子どもたちに人気があったため、却って世の反発を招くことをおそれ、ケストナーの児童文学だけは、焚書の対象にしなかったということです。 

ケストナーが亡くなったのは19747月。第二次大戦後の世の中を、ケストナーはどのように見ていたのでしょうか。
第二次大戦後、新しい平和な国際秩序を作ろうとしているはずの各国首脳の様子を見て、ケストナーが書いたのが「動物会議(1949)」という絵本です。
87回も会議を重ねても結論がだせない人間たちに業を煮やして、世界中の動物たちが集まり「最初で最後の会議」を開催します。その会議の目的はただひとつ、「子どもたちのために!」でした。 

ケストナーの父親は、実はユダヤ人の医者だったと言われています。そのことをケストナーは18歳の時に母親から告げられていたとされていますが、ケストナー自身はそのことを明言していません。
もし、父親がユダヤ人であったとしたなら、戦中のドイツに踏みとどまり、ナチスへの抵抗をやめようとしなかったケストナーの意志は、心温まる作品を書く児童文学者という私たちのケストナーに対するイメージを大きく超えて、たいへん強く固いものだったと言わなければなりません。

このようなケストナーの生涯を書いた「ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家」を読み、その後に、もう一度、「飛ぶ教室」をはじめとする作品を読んでみてください。
第一次大戦から第二次大戦、さらにその後を生きたケストナーの言葉の中に、戦後71年を迎えている私たちに、伝わってくるものが見つかるかもしれません。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒) 

2016年9月2日

【本の紹介】 おかあさんの木

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 書 名 おかあさんの木
 著 者 大川 悦生 (おおかわ えっせい)
 出版社 ポプラ社(ポプラ文庫)
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この本には、表題作「おかあさんの木」をはじめ、東京大空襲、広島の原爆、シベリア抑留、玉砕の島を描いた作品など、小中学生向けに書かれた9編がおさめられています。9編のタイトルを紹介します。

l  おかあさんの木
l  火のなかの声
l  ぞうとにんげん
l  広島のきず
l  つる
l  父たちがねむる島
l  あほう六太の話
l  おもちゃ買いのじいやん
l  山のかあさんと16ぴきのねずみ 

表題作「おかあさんの木」は、7人の息子が次々と兵隊にとられ、そのたびにキリの木を植えて、息子たちが無事に帰ってくることを祈り、待ち続けたおかあさんの話。1969年に発表されて以来なんども小学校の国語教科書に収録されたそうです。
昨年、この作品のおかあさん役を鈴木京香さんが演じた映画が公開されました。
    映画「おかあさんの木」: http://www.mothers-trees.com/ 
 
 作者の大川悦生さんは、終戦の時、中学3年生で江田島海軍予科兵学校(広島県)に入校する直前。戦争が終わっていなければ、入校して6か月の訓練の後、特攻機に乗っていたかもしれないと、この本の本人あとがきに書かれています。戦後は、民話の再生に取り組み、この本以外にも原爆を題材にした作品などがあります。  

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒) 

2016年8月6日

【映画の紹介】 この子を残して

 -【映画】--------------------
  タイトル この子を残して
  出  演 加藤 剛
       十朱幸代
       大竹しのぶ
  監  督 木下惠介
  公  開 1983
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この映画の原作は、旧制長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)で放射線医学担当助教授だった永井隆博士が1948年に出版し、ベストセラーとなった同名の随筆。永井博士は、浦上天主堂近くに住むカトリック信徒でした。
194589日、博士は爆心から700mの長崎医科大学の研究室で被爆。自らも右半身に多数のガラス片を浴び、特に右耳前部の傷は深く、右側頭動脈切断という重傷でありながら、被爆直後から、布を頭に巻くのみで救護活動にあたったといわれています。博士の妻は被爆時自宅にあって、残っていたのは骨片のみだったそうです。
博士は、9月に入って原爆症による昏睡状態に陥りますが奇跡的に命をとりとめ、被爆者救護にあたった経験を「原子爆弾救護報告書」に著します。
博士は病床から原爆症の研究と執筆活動を続けました。19483月には、博士の療養のために、博士に心を寄せる浦上の人たちとカトリック教会の協力により二畳一間の如己堂(にょこどう)が建てられ、博士はここで数々の作品を生み出しました。

この映画では、永井隆博士を加藤剛さんが、その妻を十朱幸代さんが演じています。 

永井博士については、以下のサイトを参照してください。
 
永井博士の以下3作品は、青空文庫の電子書籍として、パソコン、スマートフォン、タブレットを使って、無料で読むことができます。是非、ご利用ください。
 ■この子を残して
 ■長崎の鐘
 ■ロザリオの鎖
 ※ 青空文庫 : 著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年8月5日

【本の紹介】 戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり

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  書 名 戦争といのちと
聖路加(せいるか)国際病院ものがたり
  著 者 日野原重明
  出版社 小学館
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この本の著者である日野原重明さんのことを、テレビや新聞でご存知の方は多いと思います。聖路加国際病院名誉院長であるあの日野原先生です。この本は20159月に出版、日野原先生が104歳で書いた「病院で見つめた太平洋戦争」の本です。
 
聖路加国際病院は、1902年に米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが、当時、外国人居留地であった築地明石町に開いた小さな診療所「聖路加病院」がその始まりです。
アメリカの最新医学を積極的に取り入れ、気鋭の専門医を集め、設備も拡大したこの病院は1917年に聖路加国際病院と改称されました。京都帝国大学医学部大学院で循環器学を学んでいた日野原先生は、太平洋戦争が始まった1941年に聖路加国際病院に内科医として勤務するようになりました。日野原先生の聖路加での仕事は、まさに太平洋戦争とともに始まったということになります。

この病院は、米国聖公会や米赤十字の支援のもとでキリスト教精神にもとづいて運営されていましたが、戦時体制下1943年には、キリスト教聖人の名前を病院名とし、塔に十字架をかかげているのは適切でないという政府指導により、塔の上の十字架は切断、病院名も大東亜中央病院と改名しました。
戦局が悪化した1945年、10万人以上の死者と100万人もの被災者を出したといわれる310日の東京大空襲の時には、大やけどや怪我を負った人が荷物のようにトラックに山積みにされて、この病院に運ばれてきたそうです。しかしながら、もはや病院に薬はなく、患部の分泌物を吸収するために新聞紙を燃やした粉を傷口にふりかけるのが精一杯だったそうです。

戦争末期、空襲で住む家や肉親をなくし、失意のどん底にいる人たちを力づけようと、日野原先生は、病院職員や病院に併設されている看護専門学校の生徒たちとともに、不自由な生活をしている人たちへの慰問活動を開始、四谷、中野、目黒、世田谷などの避難所を巡りました。

戦争が終わると、病院施設は米軍に接収されて米軍極東中央病院となったため、日野原先生たちは、現在国立がんセンターがある場所に「聖路加築地分院」という名の仮病院を開設して、診療を行いました。仮病院は本来の聖路加国際病院にくらべればとても小さかったようですが、一面焼け野原、劣悪な衛生環境となった東京において、食糧難、物資不足とたたかいながら、地域の公衆衛生活動に取り組みました。
ようやく1955年、聖路加本院が米軍から返還され、聖路加国際病院が元の地に戻り、現在に至っています。 

日野原先生は、「戦争は、自分とは別世界のことだなあ」と思うかもしれない子どもたちに向けて、「たがいの存在をみとめ合い、ゆるし合えば、その先にはかならず平和と幸せがまっている」ということを伝えようとして、この本を書いたそうです。

この本の最後に、日野原先生は、次のように書いています。 

もし、きみたちがわたしの話に、少しでも共感できるところを発見したら、いのちのこと、戦争をしない平和な世界の実現についていっしょに考えてみてくれませんか。 

この本、是非手にとってみてください。
まず、親から読んでみるというのはいかがでしょうか。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)