2015年11月29日

サダコ鶴の寄贈が読売・東京・朝日の各紙で紹介されました

126()に開催します「平和の集い」において、佐々木雅弘さん・祐滋さんから我孫子市に寄贈されるサダコ鶴に関する記事が、読売新聞、東京新聞、朝日新聞に掲載されました。

■読売新聞
   201512月 1日  「原爆の子」の 我孫子市へ


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126()開催の「平和の集い」に、多くの皆さんがおいでくださることを期待しています。

2015年11月16日

【案内】平和の集い

クリックで拡大。裏面も
【平和の集い ~我孫子から平和を願う~】を開催します。

■日時:2015126()
 12:30 開場 13:00 開演
■場所:けやきプラザ ふれあいホール
■入場無料

集いの内容は、以下の通りです。

【第一部】中学生が語る 平和への思いを!
今夏広島市平和記念式典に参列した中学生が現地で学び、考えてきたことを報告します。

【第二部】サダコ鶴寄贈式
「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんが白血病の闘病中に生きる希望を込めて折った「折り鶴が、禎子さんの兄の佐々木雅弘さんと甥の佐々木祐滋さんから我孫子市に寄贈されます。
「禎子物語」の朗読
禎子さんの兄の雅弘さんと我孫子中学校演劇部による朗読。

【第三部】INORI コンサート in ABIKO
禎子さんの甥でシンガーソングライターの佐々木祐滋さんと、我孫子市や近隣に在住の方々が平和を願うコンサートを行います。

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「平和の集い」開催にあわせて、以下の展示も予定しています。是非、ご覧ください。

■「原爆写真」と「戦後70年の取組み」展■
我孫子市原爆被爆者の買いが所蔵する原爆投下時の写真と、我孫子市が戦後70年・平和都市宣言30年にあたる今年に行ってきた様々な取組みのパネル展示。歴代の派遣中学生が中心となり市内小学校で実施している『リレー講座』で作られた『平和の木』も展示します。
・日程: 121(火)126()
・場所: けやきプラザ 第1ギャラリー

■「サダコと折り鶴」展■
・日程: 1127()
・場所: アビシルベ

【本の紹介】 対馬丸

理論社版
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書 名 対馬丸
著 者 大城立裕
出版社 理論社・講談社文庫
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1944822日深夜、沖縄から九州に向かった学童疎開船対馬丸が米潜水艦の攻撃により沈没、乗船していた800余名の学童の多くが命を落とし、命をとりとめた学童はわずか59名だったという対馬丸事件。
沖縄から本土への学童疎開は、サイパン玉砕(19447)に次ぐ決戦地となる可能性が高いとみられた沖縄への兵員・軍事物資輸送とあわせて、沖縄県知事への「非戦闘員(老人・婦女子)10万人を本土もしくは台湾に疎開させよ」という政府通達により実施されました。非戦闘員の安全を守るという名目のほか、兵員が増派されている沖縄での食料事情なども勘案した対応だったようです。
対馬丸も本土からの往路は兵員輸送、復路は疎開輸送にあたっていました。
沖縄県教学課からの通達により、県内国民学校では疎開学童を募りますが、九州までの海域に現れる米潜水艦の危険性や、「本土」という未知の地にわが子を送り出すことの不安から、多くの保護者がわが子の疎開を躊躇したそうです。保護者は軍艦による疎開輸送を望みますが、当時の日本海軍にはこれに充てる軍艦の余裕は既になく、結局、対馬丸のような貨客船が疎開輸送にあたりました。
講談社文庫版
対馬丸・暁空丸・和浦丸の三隻からなる船団は、駆逐艦、砲艦各一隻の護衛を伴って、820日夕刻に那覇港を出発。対馬丸に乗船した学童たちの中には、疎開の意味も米潜水艦の危険性もまだ理解できず、乗船した最初の晩を「まるで修学旅行に行くかのように」、興奮して過ごした子どももいたと記録されています。
米潜水艦からの魚雷攻撃は、82222時過ぎ。三隻のうち一番船足の遅い対馬丸が魚雷命中から11分後に爆発を起こして、乗船していた1661(学童800余名を含む)とともに沈没。奄美大島には多くの遺体が漂着し、命をとりとめた59名の学童も何日もの漂流の後にようやく救出されました。

この本「対馬丸」は、最初1982年に理論社から出版されましたが、今年3月に講談社から文庫版が出版されました。
著者である大城立裕さん(沖縄県出身の作家)の記述には事実と異なる点もあると指摘されていますが、生存者の体験に取材した大城さんのこの本が、沖縄以外ではあまり知られていなかったこの惨劇を日本中に知らしめることとなったといいます。

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年11月12日

【本の紹介】 ユキは十七歳 特攻で死んだ

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 書 名 ユキは十七歳 特攻で死んだ
   子犬よさらば、愛しきいのち
 著 者 毛利 恒之
 出版社 ポプラ社 (ポプラ文庫)
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この文庫本の表紙は、鹿児島県南さつま市にある万世特攻平和祈念館に展示されている「子犬を抱く少年兵」という有名な写真です。少年たちは17歳と18歳。笑顔で子犬を見つめる眼差しにはまだ初々しさが残っています。
しかし・・・信じられないことに、この写真は、彼らが特攻隊として出撃する予定時間のわずか2時間前に撮影されたものなのです。

子犬を抱いてカメラを見つめる中央の少年。彼が栃木県桐生市出身の17歳、荒木幸雄伍長です。この本は、彼が空に憧れてパイロットを目指し、15歳で難関の陸軍少年飛行兵試験に合格してから特攻出撃の日を迎えるまでの日々を、日記をもとに克明に追っていきます。
戦況は刻一刻と悪化していき、パイロットの養成が急がれていました。飛行兵の養成期間は半減され、休みもなく毎日が血を吐くような訓練の日々が続きました。そんな練習中に彼が同期生につぶやいたのは「できたら、おれ、工業専門学校に行って、航空技術者になりたいんだ」という夢でした。
しかし時代は彼の夢を踏みにじります。飛行兵にあこがれて陸軍少年飛行兵学校に入学してからわずか1年8か月後。 17歳の荒木幸雄伍長が参加した初めての戦闘は、二度と戻ることのない特攻隊としての出撃でした・・・。

 万世基地の隊員だった稲村七郎さんは自著の中でこう述べています。「特攻隊の人達は、若い日、大空を飛ぶことに憧れ訓練したもので、決して特攻隊にゆくために飛び始めたのではない。いつの日か平和な時代が来た時、大空を飛んでみたいという思い入れが皆にあったのだ。」と。
まもなく自分はこの世から消えていく、そんな状況でも子犬を愛しんだ若人たち。優しさに満ちた彼らの笑顔を、平和な時代に咲かせられなかったことが残念でなりません。

(我孫子市平和事業推進市民会議 M

2015年11月11日

【映画の紹介】原爆の子

-【映画】-------------------------
タイトル  原爆の子
出  演  乙羽信子
       滝沢 修
       宇野重吉
監  督  新藤兼人
公  開  195286
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この映画は、教育学者の長田新(おさだ あらた)が被爆した少年少女の手記を集めて195110月に刊行した「原爆の子〜広島の少年少女のうったえ」をもとに新藤兼人が監督、被爆7年目の195286日に公開した作品。戦後初めて原爆を取り上げた映画とされているそうです。
サンフランシスコ講和条約(195198日調印、1952428日発効)の締結から間もない時期に公開され、当初は海外で物議をかもしたようですが、反原爆の世論を背景に社会的反響を呼び、高い評価を得ました。
モノクロですが、映像中に映し込まれている被爆後数年を経た広島市内の様子とともに、乙羽信子さんの演技を通じて、原爆によって家を失い肉親を失った子どもたちの心が伝わってくる作品で、若い人が観ても古いとはまったく感じないものと思います。多くの皆さんに観ていただきたい映画です。
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年11月10日

リレー講座に参加して

広島・長崎派遣中学生による平和の授業「リレー講座」。小学生の皆さんはどのような反応を見せているのでしょうか。今回は11月7日に湖北小学校で行われた、第7回リレー講座を見学しました。
(我孫子市平和事業推進市民会議 M男)

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6年1組 講座風景
「私はこの小学校を卒業しました。その頃大好きだった遊具がそのままなのでとても懐かしく思います。」講師の今和香菜さん(平成21年度派遣中学生)が笑顔で語り始めました。 「へー、今日の先生は私たちの先輩なんだ。」 子供たちの緊張がほぐれていきます。6年1組は他に派遣OB 3名がアシスタントとして補佐し、隣の62組でも4名の派遣OBが授業を行っています。

授業は、大型ディスプレイに映像を映しながら原子爆弾について説明していきます。
「では問題です。世界170か国のうち、原爆が落とされた国は何か国でしょうか?」
「Aの 1か国だと思う人?」 ・・・クラスの半分が手を上げました。
「Bの 10か国だと思う人?」・・・これもほぼ半分。 Cの 100か国も1人が手を上げました。
「正解は、Aの1か国です。」 「えー!」と驚きの声が上がります。 
「日本は、原爆を受けたただ1つの国なのです。」
「広島では、たった1発の原子爆弾で12万人が亡くなりました。我孫子市の人口が133千人なので、だいたい我孫子市全員と同じ人数が亡くなったんだよ。」アシスタントの話に子供たちが真剣に耳を傾けます。
「原子爆弾が爆発した時、地上の温度は3000度から4000度になったと言われています。ちなみに、人がやけどするのは150度。1500度では鉄が溶けます。」 「えー! うそー! そんなに熱いの⁉」 子供たちが息を飲みます。ディスプレイには、がれきと化した爆心地。焼けただれた三輪車。溶けた弁当箱。 子供たちの目が映像に食い入ります。

「あなたが生きるうえで、幸せなことは何ですか? 考えてみて。」講師が問いかけます。
「家族と食事すること。」「友達と遊ぶこと。」子供たちが答えます。
「そうですね。でも、派遣でお会いした被爆者の方はこう言ったのです。」 ディスプレイは年配の男性を映し出し、その後真っ白になりました。 講師が男性の言葉を伝えます。
「私が幸せなことは・・・」
「息ができることです。」 子供たちは信じられないという表情。
「息ができること、生きていること。被爆者の方はそれが幸せだとおっしゃったのです。」

6年2組 講座風景
最後に「平和な世の中にするために今日から自分たちができること」をグループで話し合って発表してもらい、リレー講座は終りました。
「いじめをしない」「人の意見を聞く」「けんかをしない」・・・
その意見がとてもシンプルだっただけに、子供たちがこの授業を通じて強く感じたこと、さらには平和というものの本質がそこに凝縮されているように私には思えました。

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(後記)
「日本は唯一の被爆国」。大人たちが常識と思っていることでも、子供たちは知らない。
そんな当たり前のことを強く感じた1日でした。我々が第一次世界大戦を良く知らないように、子供たちにとって70年前の戦争は、江戸時代と同じく大昔の事。教科書の中のことなのでしょう。

戦後70周年記念事業として始まった「リレー講座」。 タスキを渡すように世代間で負の記憶と平和の大切さを繋いでいくこのような活動が、今後さらに重要度を増していくのだと思います。

2015年11月4日

長崎で「パグウォッシュ会議」開幕

核兵器と戦争の廃絶を訴える科学者らの組織「パグウォッシュ会議」の第61回世界大会が、111日長崎で始まりました。
「パグウォッシュ会議」は、科学者アインシュタインや哲学者バートランド・ラッセルらによる核兵器廃絶の宣言を契機に、1957年、湯川秀樹、朝永振一郎を含む10ヶ国22名の科学者によって始まり、1995年にはノーベル平和賞を受賞しています。これまで広島では2度開催されてきましたが、今回初めて、長崎で開催されています。
原爆投下70年の節目にあたる今回の世界大会は、36ヶ国から200名近い科学者や各国政府高官が集まり、115日までの5日間開催され、最終日に、核廃絶に向けた「長崎宣言」が発表される予定。
初日午後に長崎大学で行われた全体会議では、従来の核抑止論を繰り返した核保有大国の軍縮担当者に対して、核廃絶を訴える参加者から批判的な意見が続出しているとの報道(日経新聞)もされています。 

2015年10月31日

派遣中学生リレー講座が東京新聞で紹介されました

  今年度、我孫子市平和事業一環として取り組んでいる【広島・長崎派遣中学生リレー講座】が、1029日の東京新聞で紹介されました。是非、ご覧ください。 

■東京新聞
 

記事中写真の講師(高校3年生)と小学生6年生の眼差し。
伝えようとする講師の眼差しと受け止めようとする小学生の真剣な眼差しの先に、平和への希望を見出したいと思います。


2015年10月27日

【CDの紹介】 吉永小百合 詩の朗読:第二楽章

吉永小百合さんによる詩の朗読のCDです。
ここで紹介するのは、広島で被爆した人たちの詩を朗読した「第二楽章」と長崎で被爆した人たちによる詩を朗読した「第二楽章/長崎から」の二枚です。 


第二楽章
第二楽章
 
 CDは、「ちちをかえせ ははをかえせ」で始まる峠三吉の『原爆詩集 序』を抑えた静かな声で読む吉永小百合さんの朗読で始まります。
原爆詩人である栗原貞子さんの「詩:生ましめんかな」は、原爆投下の夜に避難していた壕内で産気づいた妊婦の赤ちゃんを、同じ壕内に居合わせた産婆が自らも負っていた重傷をかえりみることなく取り上げた後、息を引き取っていくという内容。原爆投下の夜に、自分の命に代えて、新しい命を「この世に生ませよう!(生まれてほしい!)」と願った産婆の最後の気高い願いに、胸を打たれます。 
 

第二楽章/長崎から
第二楽章/長崎から

こちらのCDでは、「この子を残して」、「長崎の鐘」などの著作で知られる長崎医科大学の永井隆博士の次女である筒井茅乃さんの「娘よ、ここが長崎です」が朗読されています。茅乃さんは、被爆により骨片しか残らなかった母のこと、被爆により重傷を負いながらも被曝者の救護にあたり、また原爆の記録を多く残した父のことを、深い愛情と悲しみをもって綴っています。 





どちらのCDのジャケットも、「となりのトトロ」など多くのジブリ作品で美術監督をつとめた男鹿和雄さんが描いています。
美しい絵のジャケット、美しい音楽の流れるCD、そこで朗読される詩には、人間性を踏みにじる原爆の許されない事実と、肉親を失った人々の悲しみ、そして吉永小百合さんの平和への強い願いが込められています。 
 

   上記のCD二枚は、我孫子市民図書館にて借りることができます。
   吉永小百合さんは、詩の朗読「第二楽章」として、上記のほか、「第二楽章 沖縄から」、「第二楽章 福島への思い」も発表されています。
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年10月20日

【本の紹介】 ひめゆりの沖縄戦


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 書 名 ひめゆりの沖縄戦
 少女は嵐のなかを生きた
 著 者 伊波園子
 出版社 岩波ジュニア新書
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沖縄戦は、住民(非戦闘員)を巻き込んだ国内戦であり、多くの住民が犠牲となりました。当時、大本営は「沖縄戦闘は本土戦備のために時間を稼ぐ持久戦である(19451月)」と位置づけていたと言われます。
そんな中、194541日アメリカ軍は沖縄本島中西部に上陸。それから6月下旬までの約3ヶ月、南に逃れて行った日本兵、ひめゆり学徒隊、そして住民たち。ひめゆり学徒隊には、前線にありながら618日に解散命令が出されており、指揮系統を失った彼女たちは、米艦からの艦砲・戦車からの迫撃砲を避けつつ、少人数のグループ単位で死線をさまよい、島の最南端荒崎にたどり着きます。
この本を書いた伊波園子さんは、荒崎の岩場で足に銃弾を受けた直後、米兵に保護されますが、そのすぐ近くの岩場では、第一高等女学校の教師一名と生徒九名が、手榴弾による集団自決で命を落としました。
看護要員として動員され犠牲となったひめゆり学徒隊は136名。彼女たちは、現在であれば中学生から高校生にあたる年齢でした。この本の表紙にある少女のシルエットを見て、「うちの娘に似ている!」と思ったお父さんも少なくないのではないでしょうか。
この本は、岩波ジュニア新書の中の一冊です。ひめゆり学徒隊の当時と同じ年齢世代の人たちに読んでほしいということだと思います。
当時十代だった元ひめゆり学徒隊で、現在ご健在の方々も既に八十代になっておられます。ひめゆり学徒隊の事実、若い人たちに伝えていかなければなりません。
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年10月9日

国際交流スピーチ大会: 広島に行って感じたこと (湖北台中2年 菅野麗さん)

スピーチ大会参加者と審査委員
  927()、我孫子市国際交流協会(AIRA)主催の第17回国際交流スピーチ大会が開催されました。
今年の本大会は、我孫子市市制45周年記念、戦後70年・平和都市宣言30年の記念事業として実施され、テーマに「平和」を含んだスピーチ(英語の部、日本語の部)が、市内の中学生4名、大学生4名、社会人3名の合計11名により発表されました。
 
スピーチを発表する菅野さん
この中で、今夏、派遣中学生として広島を訪れた菅野麗さん(湖北台中学2年)が、「広島に行って感じたこと」という題で英語スピーチを発表し、我孫子市青木副市長から国際平和特別賞を受賞されました。

菅野さんは、このスピーチの中で、「自分たち若い世代が被爆や戦争の体験を直接聞くことのできる最後の世代であり、次へとつなげていくことで平和な世界が築ける」と訴えました。
菅野さんのスピーチ内容を、以下に紹介します。 

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For the three days from the fifth till the seventh of August, I learned many things about peace in Hiroshima. I experienced many things, and out of those, there are two things in particular that a lasting impression on me.

First, the people who were impacted by the nuclear bomb wish that the bomb will never be used again, and in order for that to become a reality, the younger generation must get involved. On the third day in Hiroshima, we visited places like the Peace Memorial Park and the National Peace Memorial Hall for Atomic Bomb Victims. During the visit, we were accompanied by volunteer guide. That guide said to us many times, “In reality, for the victims of the atomic bomb, the bombing many well be a memory they would like to forget. But even if that is the case, the bombing happened, so it can’t be forgotten. The want young people like you to come to Hiroshima and listen to their stories. In this way, the tragedy and inhumanity of the bombing can be told to future generations.” According to the guide, the people who lived reasonably close to the detonation point but strangely lived for a long time, mostly stay away from the media. However, even the people who think ‘I want to forget, I don’t want to recall it anymore’, say, “I continued to live after the bombing, so I have a responsibility to talk about it.” I discovered that there are people who do take interviews, and that there are many things we can learn from them. 

The other things that left a lasting impression on was the tragedy of the atomic bomb. On the second day in Hiroshima, we went to another museum. Honkawa elementary school peace memorial museum is a building that was in the blast radius of the bomb, you can still see the black soot still on the walls, the charred and blackened door frames: vivid reminders of the atomic bomb remain. Bent bullets from the fierce fighting, burnt Monpe and melted glass bottles. Any one of these tells the story of the terrible power of the bomb. At another museum, the Hiroshima Peace Museum, there were many exhibits and a lot of people. There were also people from overseas, and I could feel the focus both within Japan and throughout the world. When I first entered the museum, I saw reproductions of three atomic bomb victims. At that point, seeing that, I think it would make any people stop in their tracks. I felt my heart pound in my chest. I can’t explain the feeling in writing: the blank eyes, the horrendously burnt skin, the blood stained arms and legs. It is a doll that makes me go pale just thinking about it. You really have to see it to understand what I mean. The clock that stopped exactly at 8:15, when the bomb dropped, and the iron door that absorbed glass into it. The woman whose skin swelled up with scars, and the man whose face was covered in purple spots. Amongst them all, the most shocking was the stone with a shadow of a person. In the area around the person, the stone whitened due to the heat rays, and where the person was sitting, without being burnt, a shadow remains. It’s an exhibit that demonstrates the large number of live that were taken away in the instant the bomb detonated. All of the exhibits were wo gruesome they were difficult to look at, but even so, no matter how dreadful they were, if don’t face them then we can’t think about where we can go from here. So, even if don’t think you have the courage to look at those kinds of exhibits, I want to you to put the effort in to going, even just once, and see them for yourself. If you do that, I think that will help bring us one step closer and see them for yourself. If you do that, I think that will help bring us one step closer to world peace. 

I think we need to pay respects to the few people who can teach us about the truth of war learn more about the war, increase understanding, and work harder to achieve a peaceful world, because the protection of the world is our responsibility, as the next generation. I think there are still many people who haven’t been to Hiroshima, but even if it’s only a little bit, you should start to learn more about it. It’s said that people around my age will be the last to hear about the war and the atomic bomb directly. While we can still learn about it, we should learn as much as possible. While we can still hear about it, we should hear as much as possible. If we do this, the story can be passed down through the generations, and we can build a more peaceful world. 
(参考:スピーチ内容和文 

 
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講演する写真家宮角孝雄さん
また、スピーチ大会では、あびこ市民プラザで【写真展 “GROUND ZERO 平和の祈り 2015 (918日~30)】を開催していた被爆二世写真家の宮角孝雄さんによる講演「写真と平和」が行われました。宮角さんは、ご家族の被爆体験、ご自身が写真家として原爆ドーム前で平和を祈る人の肖像写真を撮るようになった経緯を、お話し下さいました。

2015年10月7日

中央学院大学あびこ祭 「平和をつなぐ -原爆投下から70年」

https://drive.google.com/file/d/0B63FzjF8R__9SDJpRFB1S0dMaU0/view?usp=sharing
クリックで拡大。裏面も
1024()25()に開催される中央学院大学の大学祭(あびこ祭)において、以下のような【戦後70年特別企画】が催されます。 

 ■日時 : 1025() 12001500
 ■場所 : 中央学院大学 611教室 

第一部 12:0013:30
 < 挨   拶 >
  我孫子市平和事業推進市民会議
            深山恒男
 < 講   演 >
  「平和をつなぐ -原爆投下から70年」
      法学部准教授 川久保文紀
 <被爆者体験談>
  我孫子市原爆被爆者の会   清水益雄
第二部 13:4015:00
 <シンポジウム>
  「わたしたちにとっての戦後 核廃絶と日本の役割」
         司会・進行 法学部准教授 川久保文紀
  DVD上映 「食べられなかったオニギリ」
          (孫子市原爆被爆者の会) 

  この特別企画には、我孫子市原爆被爆者の会、ならびに我孫子市平和事業推進市民会議も、被爆体験談、パネルディスカッション等への協力を予定しています。 

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中央学院大学では、法学部の「現代社会と法コース」で開設されている科目「平和学」が、広島市・長崎市の推進する【広島・長崎講座】に認定されました。
公益財団法人広島平和文化センターが認定する【広島・長崎講座】とは、被爆者の「他の誰にもこんな思いをさせてはいけない」というメッセージの意味を学術的に整理・体系化し、普遍性のある学問として若い世代に伝えるための広島市・長崎市の取組みです。