2017年7月27日

【ご案内】被爆72周年我孫子市平和祈念式典・リレー講座



本年も、以下の通り「被爆72周年 平和祈念式典」を開催します。多くの市民の皆さんが、平和祈念式典においでくださるようお待ち致しております。



 ■日 時:平成29812() 930
 ■場 所:手賀沼公園内「平和の記念碑」前
 ■内 容:黙とう、献花、広島派遣中学生の報告 等

式典後には、アビスタ1階ホールにて、被爆体験講話ビデオ上映と、三年目に入った歴代派遣中学生によるリレー講座の紹介を予定しています。あわせて、是非お越しください。

 ■日 時:平成29812() 1030頃~
 ■場 所:アビスタ1階ホール 

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手賀沼公園には、平和を祈念するモニュメントが多くあります。平和祈念式典においでくださった折りに、これらのモニュメントをご覧いただければ幸いです。

 u 禎子鶴
 u 陽光桜

 ※    モニュメントの名前をクリックすると、それぞれのモニュメントに関する本ブログの記事が開きます。

禎子鶴がユタ州原爆訓練地へ

 2歳の時広島で被爆、12歳でその命を終え、広島市平和記念公園の「原爆の子の像」のモデルになった佐々木禎子(さだこ)さんが闘病中に折った鶴(禎子鶴)が、8月6日、米ユタ州の博物館に寄贈されることとなりました。この博物館は原爆を投下した米軍機エノラ・ゲイの格納庫が現存し、エノラ・ゲイの乗組員が訓練の拠点としていた空軍基地の跡地にあります。
禎子鶴の米国への寄贈は、ハワイの真珠湾攻撃の犠牲者を追悼するアリゾナ記念館やニューヨークの同時多発テロの犠牲者の追悼施設などに続き、6カ所目になるそうです。


戦後70周年にあたる一昨年、我孫子市にも佐々木禎子さんが作った折り鶴が寄贈されました。2015126日にけやきプラザふれあいホールで開かれた「平和の集い 〜我孫子から平和を願う〜」の場で、佐々木禎子さんの兄の佐々木雅弘さんと甥の佐々木祐滋さんにより寄贈され、同年1212日より、アビスタで常設展示されています。アビスタにおいでの折には、ぜひご覧になってください。

2017年7月13日

3年目に入ったリレー講座

 平成17年以来被爆地広島・長崎に我孫子市内中学生の代表として派遣された元派遣中学生による市内小学校でのリレー講座が今年度も始まりました。戦後70年であった一昨年以来、3年目となる取組みです。617日我孫子第一小学校で行われた今年度第一回目のリレー講座を、我孫子市平和事業推進市民会議メンバーである見城千佳子さんにレポートしていただきました。

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広島・長崎派遣中学生リレー講座 : 617日 我孫子第一小

617日(土)に我孫子第一小学校で行われた、リレー講座を見学しました。

講師の川合瑞季さん
61組の授業では、講師の川合瑞季さん(H24年度派遣・現在大学1年生)が、自己紹介、派遣中学生について説明した後、新聞の写真を見せて質問します。「この人は誰かわかりますか?」「オバマ大統領」と直ぐに声が上がります。次に、「原爆が落とされたことがある国は何カ国あるかわかりますか?」子どもたちの答えは1つ、15と分かれました。また、広島・長崎の原爆で亡くなった人の数を、我孫子市の人口と対比して考えてもらいます。アイロンの温度は150度、そして原子爆弾の熱線の温度は?等。戦時中の第一小学校の子どもたちの写真も効果的です。身近なことや話題のニュースから子どもたちに問いかけ、広島・長崎に落とされた原子爆弾の脅威、悲惨さについて語られます。親しみやすい先輩のお姉さんの言葉に、子どもたちも熱心に聞き入っています。子どもからの質問や、言葉に一つひとつ解りやすく説明して、丁寧に答える川合さん。全ての発言に肯定して答えられていることに感心させられました。

講師の郡山琴美さんと
アシスタントの齊藤寛人くん
川合さんが派遣中学生として長崎に行き、実際に見て、聞いて感じたことを、自分のことばで伝えようとする姿は、6年生の心に届き「平和について」考える第一歩となったことと思います。中学生が高校生、大学生となり我孫子の小学生に確実に継いでいくリレー講座の意義を再確認しました。班に分かれてのワークショップでは「平和なこと、平和じゃないことを考えてみよう」でそれぞれが思う事を考えて発表します。「安心して眠ることができること」「あれが欲しいと言えること」「けんかしても友だちに謝ることができる」等など。

講師やアシスタントをつとめた
大学生・中学生と一緒に平和の樹に
小学生のメッセージを貼る見城さん
「平和な世の中にするために今日から自分たちができること」を葉っぱに書いて平和の樹を完成させます。この日は、参観日で、お父さんお母さんも子どもたちの活動を熱心に見守っていました。その後、きっと家庭でもいろいろな会話が生まれたのではないでしょうか。おじいちゃん、おばちゃんとも。素晴らしい授業だったので、もっとたくさんの人に関心を持って見学して欲しいと思います。2組の教室を見学したときは、ちょうど去年派遣された中学3年生の齊藤寛人くんが、アシスタントとしてビデオの説明をしていました。去年見てきた長崎について、思ったこと、感じたことをしっかりと伝えていました。6年生により近い年齢の中学生の姿は、子どもたちにも目標となる存在だったことでしょう。中学生の参加がもっと多いと良いなと思いました。 

2017年6月1日

2017年度我孫子市平和事業推進市民会議の活動が始まりました

  今年度も、我孫子市平和事業推進市民会議の活動がスタートしました。

本市民会議は、平成207月施行「我孫子市平和事業推進条例」に基づいて設置されている会議であり、公募市民、我孫子市内の市民団体に属する者、市内大学在学生、市内在住高校生などのメンバーが、我孫子市長からの委嘱を受けて構成しています。
2017年度は14名が市長からの委嘱を受け、521日に第一回目の会合を行いました。
 
今年度も以下のような平和事業への取組みを計画しています。
s  85日~7    広島への中学生派遣
s  87日~21  原爆写真と折り鶴展(アビスタ)
s  812()    平和祈念式典(手賀沼公園)
s  123()    派遣中学生発表会
s  6月~2         広島・長崎派遣中学生によるリレー講座(市内全13小学校)
s  その他、本ブログを通しての平和事業の紹介発信など 
 
2017年度我孫子市平和事業推進市民会議メンバー
今年度も、我孫子市平和事業推進市民会議は、多くの市民の皆さんのご協力のもとに、核兵器廃絶と平和な世界の到来のための活動を進めてまいります。 

我孫子市平和事業推進市民会議については、我孫子市HPの以下ページをご参照ください。

2016年12月14日

12月4日、「平和の集い」が開催されました

  124()、けやきプラザふれあいホールで「平和の集い 〜我孫子から平和を願う〜」が開催されました。多くの市民の皆さまにお集まりいただき、核兵器の廃絶を願い、平和の大切さを考える場となりました。 

【第1部】 長崎被爆体験講話

 爆心地から約4㎞の屋外で被爆された原田美智子さん(被爆当時6)を長崎からお招きして、被爆体験をお話しいただきました。原爆による病気で祖父、父、母、弟を亡くし、残された原田さんは13年間被爆者の健康診断に携わってこられました。 

【第2部】 長崎派遣中学生の報告

https://drive.google.com/file/d/0B63FzjF8R__9a0dwZTlyckFJRlE/view?usp=sharing
長崎派遣中学生の報告
(クリックして動画をご覧になれます)
今夏8月に長崎市を訪問し、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列した市内中学生12名が長崎派遣での体験を報告。報告の締めくくりには、来場された方々を前に12名がそれぞれの「平和宣言」を語りました。
原爆や戦争を体験された方が少なくなっていく中、若い世代が核兵器廃絶の願い、平和への思いを引き継いでいくことの大切さが伝わりました。 

【第3部】 我孫子中学校演劇部・吹奏楽部 朗読劇
      「今は春べと咲くやこの花」

https://drive.google.com/file/d/0B63FzjF8R__9VWRLbUNLX1ZkNTA/view?usp=sharing
我孫子中学校演劇部・吹奏楽部 朗読劇
(クリックして動画をご覧になれます)
この「平和の集い」に4回目の出演となる我孫子中学校演劇部。今回は、長崎爆心地から700mの距離にあった山里国民学校の元教師・山崎壽子さんの体験手記から創作された台本をもとにした朗読劇を上演していただきました。台本は長崎市からご提供いただいたものです。 

今年は、長崎市との共催による「ナガサキ原爆被災展」、原田美智子さんの長崎被爆体験講話、そして長崎山里国民学校を舞台とした朗読劇の上演もあり、今夏の派遣中学生長崎訪問がこの「平和の集い」にしっかりつながってきていることを実感しました。 

「平和の集い」にご協力いただいた方々のご了解をいただき、本ブログに第1部から第3部までの動画を掲載します。
当日、ご来場いただけなかった皆さんにも、ぜひ動画を通じて、「平和の集い」からのメッセージに耳を傾けていただきたいと思います。
(動画は、上の写真をクリックすることにより、ご覧いただくことができます。)

2016年12月3日

ナガサキ原爆被災展が新聞紙上で紹介されました

平和の集い
(クリックで拡大)
  本ブログでもご案内させていただいておりますナガサキ原爆被災展(1130日~124日:けやきプラザ、アビシルベ)が以下新聞紙上で紹介されました。




ナガサキ原爆被災展
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また、124()平和の集いで上演されます我孫子中学校演劇部による朗読劇「今は春べと咲くやこの花」についても、朝日新聞に紹介記事が掲載されました。


ナガサキ原爆被災展、平和の集いへの、多くの市民の皆さまのご来場をお待ちしています。

2016年11月10日

【案内】 我孫子から平和を願う 平和の集い・ナガサキ原爆被災展

【平和の集い】、【ナガサキ原爆被災展】のご案内を致します。
多くの市民の皆さんがおいでくださいますよう、お待ち申し上げております。

平和の集い
(クリックで拡大)
【平和の集い】

■日時:2016124()
 12:30 開場 13:00 開演
■場所:けやきプラザ2階 ふれあいホール(入場無料)
■プログラム:
    ・ 長崎被爆体験講話
    ・長崎派遣中学生報告会
    ・我孫子中学校演劇部 「今は春べと咲くやこの花」 
 



ナガサキ原爆被災展
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【ナガサキ原爆被災展】 (長崎市共催)

柱時計やマリア像、手に触れることが出来る表面が泡立った瓦、原爆が落とされた直後の写真など長崎市所蔵の貴重な物品を展示します。
 ■会場: けやきプラザ 第12ギャラリー、アビシルベ
 ■期間: 1130()124()
 ■時間: 午前10時~午後6時(12/4は午後4時まで)






 
◆けやきプラザ・アビシルベ案内図

2016年10月19日

【本の紹介】 綾瀬はるか 「戦争」を聞く



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 書 名 ① 綾瀬はるか 「戦争」を聞く
     ② 綾瀬はるか 「戦争」を聞く Ⅱ
 著 者 TBSテレビ『NEWS23』取材班 編
 出版社 岩波書店(岩波ジュニア新書)
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紹介する二冊、①はTBSテレビで放送された戦後60年記念企画「ヒロシマ」(2005)および、『NEWS23クロス』のシリーズ「綾瀬はるか『戦争』を聞く」(20102012年放送分)、②は同『NEWS23』のシリーズ「綾瀬はるか『戦争』を聞く」(20132015年放送分)に取材内容を追記して書籍化したものです。
女優の綾瀬はるかさんは、ご自身が広島市の出身。2005年にTBSテレビ戦後60年記念企画「ヒロシマ」で故・筑紫哲也氏とナビゲータを務めた際に、テニアンやサイパンの戦跡を取材、ご自身のお祖母様の被爆体験も初めて聞いたそうです。(姉を原爆でなくされたお祖母様の話は、②に収録されています。) 

この二冊で紹介されている戦争・被爆を体験された方々への綾瀬さんのインタビュー(「聞く」)は、広島、長崎から、沖縄、奄美、ハワイ、さらに、広島の原爆と東日本大震災の津波をともに体験された方にお話を聞くため陸前高田市にまで及んでいます。
綾瀬さんは1985年の生まれ。この二冊に掲載されている多く方々から伺った戦争・被爆体験のお話は、ちょうど二十歳代にあった綾瀬さん10年間の「聞く」の積み重ねにあたります。綾瀬さんは、2010年からだけでも40名以上の方々にお話を伺ったそうです。
なかには、ご自身のつらい体験を話すことを躊躇された方もいたそうです。そんな時、綾瀬さんは「今ここでこのお話を記録させてもらわないと、もう二度と聞けないかもしれない、とても大事なことを私は教えていただいているんだ」と思われたそうです。お年寄りに寄り添う綾瀬さんの人柄がお話しくださる方の心を開いたこともあったようです。 

お話を聞かせてくださった方のなかには、その後まもなく亡くなられた方もいらっしゃいます。戦争や被爆の体験をされた方々から直接お話を伺える機会は、ますます限られてきます。であればこそ、二十歳代の綾瀬さんが取り組んだ【「戦争」を聞く】 を、多くの中高校生に共有していただきたいと思います。
たいへん読みやすく、とても心に響く本です。我孫子市民図書館に蔵書がありますので、ぜひ借り出して読んでみてください。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年9月20日

【コミックの紹介】 この世界の片隅に


-【コミック】-----------------------------
  書 名 この世界の片隅に (上・中・下)
  作 者 こうの史代
  出版社 双葉社
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紹介するコミックは、こうの史代さんの『この世界の片隅に(上・中・下)』。
こうの史代さんの作品は、昨年も本ブログで、『夕凪の街 桜の国』を紹介させていただきました。
『この世界の片隅に』は、こうの史代さんが『夕凪の街 桜の国』に続いて広島を描いた作品。
広島市江波から呉に嫁いだ主人公すずは、嫁ぎ先で新しい家族たちとのささやかな暮らしをつくりますが、戦況は悪化の一途、軍港のある呉にはたび重なる空襲、そしてすずの実家がある広島には原爆が投下されます。
こうの史代さんのほのぼのとした絵とストーリー展開の中に、戦争の惨禍が色濃く語られます。
この作品は、アニメーション映画として、今年1112日に公開されるそうです。
      映画『この世界の片隅に』公式サイト 

こうの史代さんは、ご自身広島市の出身。『夕凪の街 桜の国』や『この世界の片隅に』を描いたご自身の気持ちを、朝日新聞社が毎年発行している教育特集「知る原爆」の中で、次のように語っています。  
「この世界の片隅に」では、戦時中の普通の生活をみてほしいと思って、あえて穏やかな暮らしを描きました。ふつうの人たちが戦争に巻き込まれてしまう。二度と戻ってこない当たり前の日々がどんなに尊いかを感じてほしい。 
 
こちらもぜひご覧ください。
       朝日新聞「知る原爆」 
            (「知る原爆」紙面イメージ(2016年版) こうの史代さんから)
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年9月14日

我孫子市、北朝鮮の核実験強行に厳重抗議

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 99日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が強行した通算5回目の核実験に対して、912日、我孫子市は、星野順一郎市長名で、北朝鮮金正恩国務委員会委員長宛に抗議文を送付、核実験実施に厳重に抗議するとともに、全ての核兵器と核計画を即刻放棄し、国際社会との対話と協調による外交努力を行うよう強く要請しました。 

我孫子市が、これまでに諸国の核実験に対して発した抗議については、我孫子市ホームページ内の以下ページをご覧ください。

2016年9月13日

毎日新聞で、我孫子市派遣中学生が紹介されました

  99()の毎日新聞千葉版で、この夏我孫子市から長崎に派遣された中学生12名に実施したアンケートの結果が紹介されました。中学生たちの回答には、長崎で被爆者の方から話を直接聞いて心を動かされたこと、長崎での体験を通して一層強くなった平和への願い、自分たちが学んだことを伝えていくことの大切さなどがつづられていたということです。
記事では、我孫子市のほか、流山市による小学生平和大使など、千葉県内から被爆地への児童・生徒派遣の取組みも紹介されています。是非、ご覧ください。 

2016年9月4日

【本の紹介】 ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家

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  書 名 ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家
  著 者 クラウス・コードン
  出版社 偕成社
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エーリッヒ・ケストナーの名前を、「エーミールと探偵たち」や「飛ぶ教室」を読んでご存知の方は多いと思います。
ケストナーは、18992月にドイツのドレスデンで生まれました。14歳の時(1913)、ケストナーは教師になることを目指して教員養成所に入学しますが、先生や上級生に絶対服従、規則で生徒たちをがんじがらめにするこの養成所の空気がいやでたまりませんでした。翌1914年に第一次大戦が始まり、ケストナーも1917(18)に徴兵されますが、心臓を病んで除隊。ドイツ敗戦後、教員養成所から大学進学を目指してギムナジウムに転校、1919年ライプツィヒ大学に入学して、文学、演劇、哲学を学びながら、新聞編集委員の仕事を始め、詩や舞台批評を発表し、やがて詩人として名が知られるようになります。ケストナーの詩や批評は、ヒューマニズムに裏づけられた社会風刺やパロディに満ちた作品として世の人びとに受け入れられました。
 
そうした中、ドイツ国内で「ドリトル先生」シリーズや「くまのプーさん」などの翻訳書を発行していた出版社から、子ども向けの本を書くことをすすめられて書いたのが、有名な「エーミールと探偵たち」。この本は1929年に発行されると瞬く間に人気を博し、さまざまな言語に翻訳され、世界中の子どもたちに親しまれるようになりました。
しかし、第一次大戦後世界でもっとも民主的といわれたヴァイマル憲法を制定したドイツで、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が台頭、1933年にはとうとうヒトラーが政権を握ります。
ケストナーと含むドイツの多くの文学者たちは作品を書くことを禁じられ、トーマス・マン、フロイト、ゴーリキー、ヘミングウェイなど数多くの国際的知識人・作家の本がドイツ国内で焼かれました(焚書)。ケストナーの本も火に投げ込まれました。
ナチスに反発する多くの知識人・作家が弾圧され、逮捕者も出るようになり、ドイツから海外に亡命する知識人が少なくなかった中で、ケストナーは、ドイツ国内に留まります。 

ヒトラーが政権をとった1933年に発表された「飛ぶ教室」に、ケストナーの平和に対する強い意志がこめられた文章があります。
「飛ぶ教室」の中で主人公である少年たちの学校のクロイツカム先生が、少年たちに次のように言います。 

平和を乱すことがなされたら、それをした者だけでなく、
止めなかった者にも責任はある。 

多くの本を焼いたナチスは、ケストナーのことも苦々しく受け止めていたはずですが、ケストナーが世界的に、特に子どもたちに人気があったため、却って世の反発を招くことをおそれ、ケストナーの児童文学だけは、焚書の対象にしなかったということです。 

ケストナーが亡くなったのは19747月。第二次大戦後の世の中を、ケストナーはどのように見ていたのでしょうか。
第二次大戦後、新しい平和な国際秩序を作ろうとしているはずの各国首脳の様子を見て、ケストナーが書いたのが「動物会議(1949)」という絵本です。
87回も会議を重ねても結論がだせない人間たちに業を煮やして、世界中の動物たちが集まり「最初で最後の会議」を開催します。その会議の目的はただひとつ、「子どもたちのために!」でした。 

ケストナーの父親は、実はユダヤ人の医者だったと言われています。そのことをケストナーは18歳の時に母親から告げられていたとされていますが、ケストナー自身はそのことを明言していません。
もし、父親がユダヤ人であったとしたなら、戦中のドイツに踏みとどまり、ナチスへの抵抗をやめようとしなかったケストナーの意志は、心温まる作品を書く児童文学者という私たちのケストナーに対するイメージを大きく超えて、たいへん強く固いものだったと言わなければなりません。

このようなケストナーの生涯を書いた「ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家」を読み、その後に、もう一度、「飛ぶ教室」をはじめとする作品を読んでみてください。
第一次大戦から第二次大戦、さらにその後を生きたケストナーの言葉の中に、戦後71年を迎えている私たちに、伝わってくるものが見つかるかもしれません。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)