2016年9月20日

【コミックの紹介】 この世界の片隅に


-【コミック】-----------------------------
  書 名 この世界の片隅に (上・中・下)
  作 者 こうの史代
  出版社 双葉社
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紹介するコミックは、こうの史代さんの『この世界の片隅に(上・中・下)』。
こうの史代さんの作品は、昨年も本ブログで、『夕凪の街 桜の国』を紹介させていただきました。
『この世界の片隅に』は、こうの史代さんが『夕凪の街 桜の国』に続いて広島を描いた作品。
広島市江波から呉に嫁いだ主人公すずは、嫁ぎ先で新しい家族たちとのささやかな暮らしをつくりますが、戦況は悪化の一途、軍港のある呉にはたび重なる空襲、そしてすずの実家がある広島には原爆が投下されます。
こうの史代さんのほのぼのとした絵とストーリー展開の中に、戦争の惨禍が色濃く語られます。
この作品は、アニメーション映画として、今年1112日に公開されるそうです。
      映画『この世界の片隅に』公式サイト 

こうの史代さんは、ご自身広島市の出身。『夕凪の街 桜の国』や『この世界の片隅に』を描いたご自身の気持ちを、朝日新聞社が毎年発行している教育特集「知る原爆」の中で、次のように語っています。  
「この世界の片隅に」では、戦時中の普通の生活をみてほしいと思って、あえて穏やかな暮らしを描きました。ふつうの人たちが戦争に巻き込まれてしまう。二度と戻ってこない当たり前の日々がどんなに尊いかを感じてほしい。 
 
こちらもぜひご覧ください。
       朝日新聞「知る原爆」 
            (「知る原爆」紙面イメージ(2016年版) こうの史代さんから)
 
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年9月14日

我孫子市、北朝鮮の核実験強行に厳重抗議

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 99日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が強行した通算5回目の核実験に対して、912日、我孫子市は、星野順一郎市長名で、北朝鮮金正恩国務委員会委員長宛に抗議文を送付、核実験実施に厳重に抗議するとともに、全ての核兵器と核計画を即刻放棄し、国際社会との対話と協調による外交努力を行うよう強く要請しました。 

我孫子市が、これまでに諸国の核実験に対して発した抗議については、我孫子市ホームページ内の以下ページをご覧ください。

2016年9月13日

毎日新聞で、我孫子市派遣中学生が紹介されました

  99()の毎日新聞千葉版で、この夏我孫子市から長崎に派遣された中学生12名に実施したアンケートの結果が紹介されました。中学生たちの回答には、長崎で被爆者の方から話を直接聞いて心を動かされたこと、長崎での体験を通して一層強くなった平和への願い、自分たちが学んだことを伝えていくことの大切さなどがつづられていたということです。
記事では、我孫子市のほか、流山市による小学生平和大使など、千葉県内から被爆地への児童・生徒派遣の取組みも紹介されています。是非、ご覧ください。 

2016年9月4日

【本の紹介】 ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家

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  書 名 ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家
  著 者 クラウス・コードン
  出版社 偕成社
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エーリッヒ・ケストナーの名前を、「エーミールと探偵たち」や「飛ぶ教室」を読んでご存知の方は多いと思います。
ケストナーは、18992月にドイツのドレスデンで生まれました。14歳の時(1913)、ケストナーは教師になることを目指して教員養成所に入学しますが、先生や上級生に絶対服従、規則で生徒たちをがんじがらめにするこの養成所の空気がいやでたまりませんでした。翌1914年に第一次大戦が始まり、ケストナーも1917(18)に徴兵されますが、心臓を病んで除隊。ドイツ敗戦後、教員養成所から大学進学を目指してギムナジウムに転校、1919年ライプツィヒ大学に入学して、文学、演劇、哲学を学びながら、新聞編集委員の仕事を始め、詩や舞台批評を発表し、やがて詩人として名が知られるようになります。ケストナーの詩や批評は、ヒューマニズムに裏づけられた社会風刺やパロディに満ちた作品として世の人びとに受け入れられました。
 
そうした中、ドイツ国内で「ドリトル先生」シリーズや「くまのプーさん」などの翻訳書を発行していた出版社から、子ども向けの本を書くことをすすめられて書いたのが、有名な「エーミールと探偵たち」。この本は1929年に発行されると瞬く間に人気を博し、さまざまな言語に翻訳され、世界中の子どもたちに親しまれるようになりました。
しかし、第一次大戦後世界でもっとも民主的といわれたヴァイマル憲法を制定したドイツで、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が台頭、1933年にはとうとうヒトラーが政権を握ります。
ケストナーと含むドイツの多くの文学者たちは作品を書くことを禁じられ、トーマス・マン、フロイト、ゴーリキー、ヘミングウェイなど数多くの国際的知識人・作家の本がドイツ国内で焼かれました(焚書)。ケストナーの本も火に投げ込まれました。
ナチスに反発する多くの知識人・作家が弾圧され、逮捕者も出るようになり、ドイツから海外に亡命する知識人が少なくなかった中で、ケストナーは、ドイツ国内に留まります。 

ヒトラーが政権をとった1933年に発表された「飛ぶ教室」に、ケストナーの平和に対する強い意志がこめられた文章があります。
「飛ぶ教室」の中で主人公である少年たちの学校のクロイツカム先生が、少年たちに次のように言います。 

平和を乱すことがなされたら、それをした者だけでなく、
止めなかった者にも責任はある。 

多くの本を焼いたナチスは、ケストナーのことも苦々しく受け止めていたはずですが、ケストナーが世界的に、特に子どもたちに人気があったため、却って世の反発を招くことをおそれ、ケストナーの児童文学だけは、焚書の対象にしなかったということです。 

ケストナーが亡くなったのは19747月。第二次大戦後の世の中を、ケストナーはどのように見ていたのでしょうか。
第二次大戦後、新しい平和な国際秩序を作ろうとしているはずの各国首脳の様子を見て、ケストナーが書いたのが「動物会議(1949)」という絵本です。
87回も会議を重ねても結論がだせない人間たちに業を煮やして、世界中の動物たちが集まり「最初で最後の会議」を開催します。その会議の目的はただひとつ、「子どもたちのために!」でした。 

ケストナーの父親は、実はユダヤ人の医者だったと言われています。そのことをケストナーは18歳の時に母親から告げられていたとされていますが、ケストナー自身はそのことを明言していません。
もし、父親がユダヤ人であったとしたなら、戦中のドイツに踏みとどまり、ナチスへの抵抗をやめようとしなかったケストナーの意志は、心温まる作品を書く児童文学者という私たちのケストナーに対するイメージを大きく超えて、たいへん強く固いものだったと言わなければなりません。

このようなケストナーの生涯を書いた「ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家」を読み、その後に、もう一度、「飛ぶ教室」をはじめとする作品を読んでみてください。
第一次大戦から第二次大戦、さらにその後を生きたケストナーの言葉の中に、戦後71年を迎えている私たちに、伝わってくるものが見つかるかもしれません。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒) 

2016年9月2日

【本の紹介】 おかあさんの木

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 書 名 おかあさんの木
 著 者 大川 悦生 (おおかわ えっせい)
 出版社 ポプラ社(ポプラ文庫)
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この本には、表題作「おかあさんの木」をはじめ、東京大空襲、広島の原爆、シベリア抑留、玉砕の島を描いた作品など、小中学生向けに書かれた9編がおさめられています。9編のタイトルを紹介します。

l  おかあさんの木
l  火のなかの声
l  ぞうとにんげん
l  広島のきず
l  つる
l  父たちがねむる島
l  あほう六太の話
l  おもちゃ買いのじいやん
l  山のかあさんと16ぴきのねずみ 

表題作「おかあさんの木」は、7人の息子が次々と兵隊にとられ、そのたびにキリの木を植えて、息子たちが無事に帰ってくることを祈り、待ち続けたおかあさんの話。1969年に発表されて以来なんども小学校の国語教科書に収録されたそうです。
昨年、この作品のおかあさん役を鈴木京香さんが演じた映画が公開されました。
    映画「おかあさんの木」: http://www.mothers-trees.com/ 
 
 作者の大川悦生さんは、終戦の時、中学3年生で江田島海軍予科兵学校(広島県)に入校する直前。戦争が終わっていなければ、入校して6か月の訓練の後、特攻機に乗っていたかもしれないと、この本の本人あとがきに書かれています。戦後は、民話の再生に取り組み、この本以外にも原爆を題材にした作品などがあります。  

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒) 

2016年8月22日

我孫子市 被爆71周年平和祈念式典が開催されました

「平和宣言都市として、核兵器の廃絶と世界の恒久平和の
実現に向け、一歩でも前進するよう多くの人びとと
連携の輪を広げていく」と語る星野市長
 813日、我孫子市の被爆71周年平和祈念式典が、手賀沼公園平和記念碑前で開催されました。
  式典では、『原爆詩集八月』から「原爆の思い出」の朗読、黙祷、長崎平和祈念式典に参加した中学生による報告、我孫子市原爆被爆者の会代表、ならびに星野我孫子市長による式辞などの後、平和記念碑、昨年広島平和記念公園から分火された平和の灯の前で、参加者全員によって、我孫子市平和都市宣言が読み上げられました。 


https://drive.google.com/file/d/0B63FzjF8R__9S3V4RlpmVHdBRm8/view?pref=2&pli=1
開式・詩の朗読(動画)
1986(昭和61)年に手賀沼公園に平和記念碑が建立されて以来開催されてきた我孫子市平和祈念式典は、今年より式典進行、詩の朗読などを、現在は社会人・大学生・高校生となっている、かつての広島・長崎派遣中学生たち若い世代が担うようになりました。2005(戦後60周年)から我孫子市平和事業の一環として広島・長崎に派遣されてきたかつての中学生たちが、昨年より始められた市内小学校でのリレー講座の講師をつとめるなど、平和を担う頼もしい次世代となってきてくれていることを実感する平和祈念式典でした。 

https://drive.google.com/file/d/0B63FzjF8R__9SFJYZ3Jyc2JBQ2c/view?pref=2&pli=1
長崎派遣報告(動画)
式典においては、今夏長崎に派遣された中学生12名を代表する派遣団長から、長崎派遣の報告がありました。12名は、長崎での被爆者講話、被爆遺構見学、全国から集まった青少年たちとの意見交換・交流などを通して、平和を考え、平和な世界を築いていくための貴重な体験を得たようです。 

献 花
式典の最後には、式典に参加された多くの市民の皆様による献花が行われました。一日も早い核兵器の廃絶と、世界の恒久平和をお祈りします。 




この式典については、毎日新聞、朝日新聞で以下の通り紹介されました。是非ご覧ください。
■毎日新聞
■朝日新聞

2016年8月17日

中学生の長崎派遣に同行して

 88日からの3日間、長崎に派遣された中学生に同行した郡山琴美さんが、同行して見た中学生たちの様子をレポートしてくれましたので、ご紹介します。
郡山琴美さんは、ご自身、かつての派遣中学生(平成22年度広島派遣)であり、現在は大学2年生です。
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被爆遺構見学 (浦上天主堂)
私は今回、長崎派遣の引率として同行させていただきました。中学生たちは思っていたよりも溶け込みが早く、全国の小・中学生や、高校生など集う青少年ピースフォーラムでは被爆体験講話を聞いて自分たちの感想を共有する姿が見られました。資料館を見学した際にも、展示物から「これは何?」(熱線により、人の影だけが残った跡を見て)「なぜ影だけが残っているの?」といった質問がたくさん寄せられました。 

青少年ピースフォーラム
帰りの電車で、派遣中学生が3日間の行程を振り返り、自分たちの素直な思いを話している姿がとても印象的でした。「もし、原子爆弾が落とされ、意識が残っていたとしても家族を探すほどの勇気はないと思う。」「平和が大切だと言われていたけれど、今回の派遣を通じてなぜ平和が大切なのかを改めて感じた。」などの声が聞こえてきて、私自身も考えさせられる一時でした。
派遣中学生がどんなことを考えているのか、そして三日間を通じて何を感じたのか、私と異なる世代の中学生の意見が聞け、とても良い経験になりました。

12月に行われる派遣中学生の発表会でも、自分たちの言葉で語ってくれることを期待します。

(我孫子市平和事業推進市民会議 郡山琴美)

2016年8月16日

市内中学生12名が長崎平和祈念式典へ!


平和祈念像の前で
  今年は、我孫子市内の中学生12名が88日から10日までの日程で長崎に派遣されました。
長崎では、北海道から沖縄までの約500名の青少年が集まって、長崎原爆の実相や戦争の悲惨さを学び、平和について考える青少年ピースフォーラム(長崎市主催)に参加しました。
フォーラムではまず、194589日学徒動員の勤務中に16歳で被爆、被爆後3日目に弟を、1ヶ月後に妹を失った永野悦子さんという被爆者の方の被爆体験講話を聞きました。
その後は、フィールドワークとして、長崎平和公園コース、浦上天主堂コース、山王神社コースの3コースにわかれ、長崎の高校生・大学生であるピースボランティアの案内のもと、被爆遺構などを見学しました。

黙祷 (動画)
2日目の89日には、長崎平和公園で我孫子市民の皆さんが平和への祈りをこめて折ってくださった折り鶴を奉納した後、星野我孫子市長、倉部教育長とともに、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列しました。71年前に原爆が投下された午前112分には、鐘が打ち鳴らされる中、参列者全員が黙祷を捧げました。
ハトに託したみんなの思い
2日目午後には、青少年ピースフォーラムに集まった全国の仲間たちと、今世界で紛争下にある子どもたち、避難民の子どもたちに想いを寄せ、自分たちの身近な対立をなくすためにはどうしたらよいか、意見交換をしました。
フォーラムを通して、全国の仲間たちとの交流が深まり、フォーラム終了時には、互いに握手をし、連絡先を交換しました。
2日目夜には市内稲佐山から世界新三大夜景・日本新三大夜景となっている長崎の夜景を見て、長崎の71年間の復興を思い、翌3日目には、グラバー園、大浦天主堂などを見学して、無事我孫子に帰ってきました。
 
派遣中学生たちによる報告会は、124()にけやきプラザふれあいホールで開催される予定となっています。中学生たちが長崎を訪れて、体験したこと、考えたことを市民の皆さんに向けて報告します。是非報告会にいらして、中学生たちのメッセージを聞いてみてください。 

2016年8月6日

【映画の紹介】 この子を残して

 -【映画】--------------------
  タイトル この子を残して
  出  演 加藤 剛
       十朱幸代
       大竹しのぶ
  監  督 木下惠介
  公  開 1983
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この映画の原作は、旧制長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)で放射線医学担当助教授だった永井隆博士が1948年に出版し、ベストセラーとなった同名の随筆。永井博士は、浦上天主堂近くに住むカトリック信徒でした。
194589日、博士は爆心から700mの長崎医科大学の研究室で被爆。自らも右半身に多数のガラス片を浴び、特に右耳前部の傷は深く、右側頭動脈切断という重傷でありながら、被爆直後から、布を頭に巻くのみで救護活動にあたったといわれています。博士の妻は被爆時自宅にあって、残っていたのは骨片のみだったそうです。
博士は、9月に入って原爆症による昏睡状態に陥りますが奇跡的に命をとりとめ、被爆者救護にあたった経験を「原子爆弾救護報告書」に著します。
博士は病床から原爆症の研究と執筆活動を続けました。19483月には、博士の療養のために、博士に心を寄せる浦上の人たちとカトリック教会の協力により二畳一間の如己堂(にょこどう)が建てられ、博士はここで数々の作品を生み出しました。

この映画では、永井隆博士を加藤剛さんが、その妻を十朱幸代さんが演じています。 

永井博士については、以下のサイトを参照してください。
 
永井博士の以下3作品は、青空文庫の電子書籍として、パソコン、スマートフォン、タブレットを使って、無料で読むことができます。是非、ご利用ください。
 ■この子を残して
 ■長崎の鐘
 ■ロザリオの鎖
 ※ 青空文庫 : 著作権が消滅した作品や著者が許諾した作品のテキストを公開しているインターネット上の電子図書館

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年8月5日

【本の紹介】 戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり

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  書 名 戦争といのちと
聖路加(せいるか)国際病院ものがたり
  著 者 日野原重明
  出版社 小学館
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この本の著者である日野原重明さんのことを、テレビや新聞でご存知の方は多いと思います。聖路加国際病院名誉院長であるあの日野原先生です。この本は20159月に出版、日野原先生が104歳で書いた「病院で見つめた太平洋戦争」の本です。
 
聖路加国際病院は、1902年に米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが、当時、外国人居留地であった築地明石町に開いた小さな診療所「聖路加病院」がその始まりです。
アメリカの最新医学を積極的に取り入れ、気鋭の専門医を集め、設備も拡大したこの病院は1917年に聖路加国際病院と改称されました。京都帝国大学医学部大学院で循環器学を学んでいた日野原先生は、太平洋戦争が始まった1941年に聖路加国際病院に内科医として勤務するようになりました。日野原先生の聖路加での仕事は、まさに太平洋戦争とともに始まったということになります。

この病院は、米国聖公会や米赤十字の支援のもとでキリスト教精神にもとづいて運営されていましたが、戦時体制下1943年には、キリスト教聖人の名前を病院名とし、塔に十字架をかかげているのは適切でないという政府指導により、塔の上の十字架は切断、病院名も大東亜中央病院と改名しました。
戦局が悪化した1945年、10万人以上の死者と100万人もの被災者を出したといわれる310日の東京大空襲の時には、大やけどや怪我を負った人が荷物のようにトラックに山積みにされて、この病院に運ばれてきたそうです。しかしながら、もはや病院に薬はなく、患部の分泌物を吸収するために新聞紙を燃やした粉を傷口にふりかけるのが精一杯だったそうです。

戦争末期、空襲で住む家や肉親をなくし、失意のどん底にいる人たちを力づけようと、日野原先生は、病院職員や病院に併設されている看護専門学校の生徒たちとともに、不自由な生活をしている人たちへの慰問活動を開始、四谷、中野、目黒、世田谷などの避難所を巡りました。

戦争が終わると、病院施設は米軍に接収されて米軍極東中央病院となったため、日野原先生たちは、現在国立がんセンターがある場所に「聖路加築地分院」という名の仮病院を開設して、診療を行いました。仮病院は本来の聖路加国際病院にくらべればとても小さかったようですが、一面焼け野原、劣悪な衛生環境となった東京において、食糧難、物資不足とたたかいながら、地域の公衆衛生活動に取り組みました。
ようやく1955年、聖路加本院が米軍から返還され、聖路加国際病院が元の地に戻り、現在に至っています。 

日野原先生は、「戦争は、自分とは別世界のことだなあ」と思うかもしれない子どもたちに向けて、「たがいの存在をみとめ合い、ゆるし合えば、その先にはかならず平和と幸せがまっている」ということを伝えようとして、この本を書いたそうです。

この本の最後に、日野原先生は、次のように書いています。 

もし、きみたちがわたしの話に、少しでも共感できるところを発見したら、いのちのこと、戦争をしない平和な世界の実現についていっしょに考えてみてくれませんか。 

この本、是非手にとってみてください。
まず、親から読んでみるというのはいかがでしょうか。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年8月3日

今年は長崎平和祈念式典に市内中学生12名が派遣されます

  我孫子市では、2005年(戦後60周年)から、平和事業の一環として、毎年8月に、広島市平和記念式典または長崎市平和祈念式典に、市内の中学生を代表団として派遣しています。昨年までに既に100名近い中学生が広島・長崎に派遣されています。

昨年からは、現在は高校生、大学生、社会人となっているかつての派遣中学生が講師となって、市内小学校の6年生を対象に、派遣中学生として広島・長崎で体験したこと、感じたことを伝え、原爆や戦争について意見を出しあい、一緒に平和について考えるリレー講座も開催されるようになり、我孫子市の中学生派遣事業でまかれた種が確実に育っていることを感じます。

今年は、8月8日から10日までの日程で、12名の中学生が長崎に派遣されます。
派遣期間中、12名の中学生は、長崎市が主催する「青少年ピースフォーラム」に参加、そこに集ってくる全国の小・中学生、高校生とともに被爆の実相や平和の大切さを学習し、交流を深めます。
89日には我孫子市民の皆さんが平和への祈りをこめて折ってくださった千羽鶴を長崎平和公園内で奉納し、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列します。

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先輩からのアドバイスを聞く中学生たち
88日に長崎に向けて出発する派遣中学生12名が、730()に市役所に集合して事前学習会を行いました。学習会では4年前に派遣中学生として長崎を訪れた先輩2(現在高校3年生)から、どのような準備をして長崎を訪問したらよいか、長崎から我孫子に帰った後にどのようにして周囲の人たちに派遣の体験を伝えたらよいか、アドバイスを受けました。
また、我孫子市在住の被爆者(胎内被爆)の方からは、被爆者としての体験、思いについて貴重なお話を伺いました。


星野市長、倉部教育長とともに
事前学習会後には、星野我孫子市長、倉部教育長を表敬しました。市長、教育長ともに中学生とともに長崎を訪問しますが、市長からは、「派遣日程中は、皆さんと多くの時間を一緒に過ごします。長崎でよく見て、よく聴いて、自分が感じたこと、考えたことについてたくさん話し合いましょう」との言葉をいただきました。

今夏長崎に派遣される中学生たちによる派遣報告会は12月4()にけやきプラザふれあいホールで開催されます。派遣報告会に、ご期待ください。

2016年8月2日

【ご案内】 被爆71周年我孫子市平和祈念式典・映画上映会

本年も、以下の通り「被爆71周年 平和祈念式典」を開催します。多くの市民の皆さんが、平和祈念式典においでくださるようお待ち致しております。

 ■日 時:平成28813() 930
 ■場 所:手賀沼公園内「平和の記念碑」前(雨天実施)
 ■内 容:黙とう、献花、長崎派遣中学生の報告 等

式典後には、平和に関する映画の上映会(無料)を予定しています。今年は、こども向けのアニメ作品二本を上映します。あわせて、是非お越しください。

 ■上映会日時:平成28813() 1040頃~
 ■場   所:アビスタホール 
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手賀沼公園には、平和を祈念するモニュメントが多くあります。平和祈念式典においでくださった折りに、これらのモニュメントをご覧いただければ幸いです。

   ※    モニュメントの名前をクリックすると、それぞれのモニュメントに関する本ブログの記事が開きます。