2015年7月29日

【本の紹介】 原爆供養塔

-【本】--------------------
 書 名       原爆供養塔
 著 者       堀川 惠子
 出版社       文藝春秋
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広島市の平和記念公園、三角形に尖った中洲の北端、T字型という珍しい形であることから米軍機の原爆投下目標点となったといわれる相生橋。その相生橋から近いところに原爆供養塔があります。この供養塔には、被爆者七万人の遺骨が眠っています。被爆前までこの地にあった浄土宗・慈仙寺の前に、被爆直後より市内から多くの遺骨が運び込まれ、1955年に現在の原爆供養塔が築かれました。

供養塔ができて後40年余にわたって、供養塔に日参し、供養塔周辺を掃き清め、平和記念公園を訪れる人に語り部として広島の原爆を語り継いできた佐伯敏子さんという方がいらっしゃいます。2015年、今年で96歳になるそうです。

「原爆供養塔」を今年5月に出版した著者堀川惠子さんは、元広島テレビ放送の報道記者。佐伯敏子さんに出会った堀川さんが書いたこの本は、親族13人を原爆で亡くした佐伯敏子さんが、原爆供養塔に通いつめ、名前がわかっていながら引取り手がなかった遺骨の遺族を探し続けて、「ヒロシマの大母さん」と呼ばれるようになったその半生を綴り、さらに病に倒れた佐伯さんの意志を継ぐかのように遺骨の身元探しを始めて、多くの人を訪ねて、初めて本当のヒロシマと向き合ったという著者自身の体験を伝えています。
70年を経ても、決して終わることのない被爆の重い現実が伝わります。
是非、読んでいただきたい一冊です。 


今夏、広島市は原爆供養塔の内部を10年ぶりに報道各社に公開しました。
 
広島市は、氏名が判明しながら遺族のわからない遺骨について納骨名簿を公開しています。

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年7月26日

佐々木祐滋さん我孫子へ

佐々木祐滋さんが、我孫子を訪れました! 

広島平和記念公園内にある「原爆の子の像」のモデルとなった、佐々木禎子さんの甥で、ミュージシャンの佐々木祐滋さんが、5月19日に我孫子市を訪れました。 

佐々木さんは、23年度と24年度の派遣中学生発表会で、佐々木禎子さんについての講演や、「INORI」などを歌ってくださいました。 

今回の訪問で、佐々木さんは、手賀沼公園にある「平和の記念碑」に献花し、原爆で犠牲になられた方のご冥福と平和を祈念されました。 
また、公園内に植樹した「被爆アオギリ2世」と「被爆クスノキ2世」もご覧になり、我孫子で平和事業が熱心に行われていることを心から喜ばれていました。

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佐々木祐滋さんFACEBOOK
佐々木祐滋さんは、おばである佐々木禎子さんの物語を語り継ぐために、音楽、講演などを通して活動されています。
祐滋さんが禎子さんの想いを綴った楽曲「INORI」は、2010年のNHK紅白歌合戦で歌手クミコさんによっても歌われています。 

佐々木祐滋さん [INORI]
 
佐々木禎子さんの兄である佐々木雅弘さん(祐滋さんの父)と祐滋さんが禎子さんの生涯を伝え、おもいやりのこころを未来に語り継ぐために運営しているNPO法人です。
 
 
 
禎子の千羽鶴
 
 ■本の紹介「禎子の千羽鶴」

-【本 (戯曲)-------------------
書 名 禎子の千羽鶴
著 者 佐々木雅弘
 出版社 学研パブリッシング
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佐々木禎子さんの兄佐々木雅弘さんが書いた禎子さんと家族の物語。
小学校6年の秋の運動会リレーで元気に走り切って優勝した一年後に12歳で亡くなるまで、家族をはじめ周囲の人たちをおもいやり、千羽鶴を折り続けた禎子さんと、禎子さんを心から愛していた家族が描かれています。20137月出版。 

禎子さんがモデルとなった原爆の子の像
 
 
(佐々木祐滋さん我孫子訪問の記事は、6月24日に一度掲載しておりますが、記事に追記して再掲します)
 
 
 

2015年7月22日

広島の女性が英議会で被爆証言

716日に広島の被爆女性が、スカイプ(インターネット電話)を通じて、イギリス議会で被爆体験を証言したというニュースが報道されました。 

証言されたのは、爆心地から2.3㎞の軍需工場に学徒動員されていて被爆された当時14歳の女性。軍需工場では、飛行機のプロペラを作っていたそうです。
倒壊した建物の下からはい出し、爆風で割れたガラスが腕に刺さった痛みで生きていることを実感されたこと、ちぎれた腕を持って逃げていた中学生が亡くなるのを目撃されたこと、別の場所で被爆した父親が娘を探して3日間広島市内を歩き回り、1年半後に血を吐いて亡くなられたことなどを証言、広島、長崎を二度と繰り返さないでほしいと訴えられました。 

英議会上院議員ら約80名が証言に聞き入ったそうです。
証言を聴いた英上院顧問は「核兵器廃絶のために共に努力したい」と語ったとのこと。
この証言は、英国内で平和運動に取り組む英上院特別アドバイザーの方が、今年4月に広島平和文化センターを訪れたことが契機となって、実現したのだそうです。 

70年を経ても、まだまだ伝えられるべき真実があり、真実を知った人の新しい決意・行動が生まれるのだということに、希望を見出していきたいと思います。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年7月16日

被爆アオギリ二世と被爆クスノキ二世

被爆アオギリ二世

 手賀沼公園の水辺近くに、平和の記念樹が2本並んで植えられています。
1本は広島市から譲り受けた「被爆アオギリ二世」。もう1本は長崎市から頂いた「被爆クスノキ二世」です。 

 アオギリ二世は広島爆心地から1.3キロメートルで被爆したアオギリの子孫。クスノキ二世は長崎の爆心地から800メートルで被爆したクスノキの子孫です。
 
 当初は、原爆投下後は数十年間草木も生えないと言われていましたが、アオギリもクスノキも、奇跡的に生き延びて新たな葉を芽吹き、その姿は打ちのめされた人々に生きる勇気と希望を与えました。 


被爆クスノキ二世
広島市と長崎市は、これらの親木から種を取って苗を育て、全国の自治体に寄贈して下さっています。
我孫子市も3年前の2012年(平成24年)8月11日、両市から頂いたこの貴重な苗を、被爆67周年平和祈念式典」の中、星野市長をはじめ我孫子市原爆被爆者の会メンバーや長崎派遣中学生たちの手によって植樹しました。 

 「平和」と「命」のシンボルとして、広島・長崎と我孫子の架け橋として、手賀沼の光と涼風を受けながらアオギリとクスノキが大きく育ってくれることを願っています。 
(我孫子市平和事業推進市民会議・M男) 

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歌手の福山雅治さんが、長崎の被爆クスノキを題材にした「クスノキ」という歌をつくっています。アルバム「HUMAN」の1曲目におさめられています。長崎生まれの福山さんは、被爆クスノキの歌をつくろうとずっと考えていたそうです。生命の尊さを歌い上げている福山さんの「クスノキ」、是非一度聞いてみてください。

中央学院大学「平和学」が【広島・長崎講座】に認定


  中央学院大学(我孫子市久寺家)法学部の正規科目「平和学」(担当:川久保文紀准教授)が、広島市・長崎市が推進する【広島・長崎講座】に認定されました。

公益財団法人広島平和文化センターが認定する【広島・長崎講座】とは、被爆者の「他の誰にもこんな思いをさせてはいけない」というメッセージの意味を学術的に整理・体系化し、普遍性のある学問として若い世代に伝えるための広島市・長崎市の取り組みです。 

中央学院大学では、1024()25()開催の大学祭(あびこ祭)でも、戦後70年特別企画として被爆者による体験談や、世界の核の現状をめぐる学生パネリストによるシンポジウムなどを企画しているとのこと。ご注目ください!

2015年7月8日

「焼き場に立つ少年」とジョー・オダネル氏

坂井貴美子氏(故ジョー・オダネル氏夫人) 提供
 この写真を初めて目にした時、何も知らない私はただ微笑ましく感じました。戦時中、忙しい親の代わりになって幼い弟を負ぶってあやしている真面目そうな少年。それにしても弟がずり落ちそうだなと。
しかし・・・写真の解説を読んだとき、私の体を衝撃が走りました。 

この写真は、従軍カメラマンのジョー・オダネル氏が原爆投下後の長崎で撮影したもの。タイトルは「焼き場に立つ少年」。
 少年は亡くなった弟を焼いてもらうために、急ごしらえで作られた焼き場の前に立ち、順番を待っていたのです。
年の頃は10歳位でしょうか。直立不動で両手をぴんと伸ばし、口を真一文字に結んでいます。順番がきて弟の遺体が焼かれている間、少年は炎を食い入るように見つめ、噛みしめられた唇からは血がにじんでいたそうです。
 火が静まると少年は一人沈黙のまま、焼き場を去って行きました。その時オダネル氏はその少年の肩を抱いて話しかけたい衝動に駆られたと後に回想しています。 

 オダネル氏は広島・長崎の状況を目の当たりにして、原爆のあまりの惨劇に大きなショックを受けました。そしてアメリカに帰国してからは個人で隠し撮った写真を、40年以上の長きにわたって屋根裏のトランクの中に封印したのです。
 しかし反核運動の彫像に偶然出会ったことをきっかけに、1990年、オダネル氏はトランクを開け、原爆の惨状を世に訴えることを決意しました。 

 2007年、オダネル氏は85歳の生涯を閉じました。奇しくもその日は8月9日。長崎に原爆が投下された日でした。
 美智子皇后陛下はその年の10月、お誕生日の記者会見でオダネル氏の死に関して触れ、「焼き場に立つ少年」がいまも目に残っており、世界平和を願わずにはいられませんとコメントされました。 


(我孫子市平和事業推進市民会議・M男)

朗読劇 「この子たちを忘れない」


柏・麦わらぼうしの会が、[1945 ヒロシマ・ナガサキ]をテーマにした朗読劇を開催します。我孫子市、我孫子市教育委員会、我孫子市社会福祉協議会も後援に加わっています。 

■日 時  201589()
       ≪昼の部≫ 開場 / 午後130
             開演 / 午後2
       ≪夜の部≫ 開場 / 午後530
             開演 / 午後6
■会 場  アミュゼ柏 クリスタルホール
■チケット 大人       999
      学生(小学生以上) 500
        ※障がい者手帳をお持ちの方の介助者は無料
        ※チケットは、福祉ショップ&軽喫茶ぽぽら(けやきプラザ1F)でも購入できます。
■展示コーナー クリスタルホールロビー
       [展示時間] 午後1時~ 入場無料 

右上のチラシをクリックすると、チラシ裏面も含め詳細をご覧いただくことができます。

2015年7月7日

平和の願いを折鶴に!


 我孫子市民・在住の皆さんに、被爆70周年「平和祈念の折り鶴」寄贈のお願いです。
ご協力いただいた折鶴は、アビスタ(我孫子市若松)での原爆写真展(810()24())や平和祈念式典(815())で展示し、その後、広島市の「原爆の子の像」、長崎原爆資料館などに寄贈します。 
 

■回収期間  73()22() 

■作り方
① 折り鶴は広げずに長さ1メートル程度の単位にまとめ、ひも(丈夫なもの)を通し、フックにつるすための輪を作ってください(複数本の場合は束ねて輪を作ってください)。
② 千羽鶴には、捧げた方の名前の入った短冊を結び付けていただくこともできます。
③ 使用する折り紙は、色紙・広告紙などを問いません(1辺約10㎝~15㎝)。 
昨年度平和祈念式典での千羽鶴(写真奥)

■回収場所
我孫子市の社会福祉課、市民課、各行政サービスセンター、各近隣センター、つつじ荘、西部福祉センター、障碍者福祉センター、あびこ市民プラザ、アビスタ、湖北地区公民館、アビシルベ(数量が多い場合はご相談ください) 

【千羽鶴作成のボランティア募集】
 日  時          725(土曜)午後130分~5
 場  所          市役所議会棟AB会議室
 定  員          10名程度
 申込み・問合せ          我孫子市社会福祉課 内線649

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このお知らせは、[広報あびこ] 7月1日号2にも掲載されています。

2015年7月4日

【本の紹介】 原爆の図、ひろしまのピカ、原爆の図物語

-【本】---------------------------
 書 名 原爆の図
作 者 丸木 位里、丸木 俊
出版社 小峰書店
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-【絵本】-------------------------
 書 名 ひろしまのピカ
作 者 丸木 俊
出版社 小峰書店
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-【本(子ども向け)】-----------
 書 名 原爆の図物語
作 者 宇佐美 承
出版社 小峰書店
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丸木位里(いり)、 俊(とし)という画家ご夫妻(ともに故人)をご存知でしょうか。
位里さんは日本画、俊さんは洋画の画家さんです。広島に原爆が落とされた日、ご夫妻は関東にお住まいだったようですが、位里さんのご両親などが広島に暮らしていたため、ご夫妻で広島に向かい、被爆直後の広島の惨状をご覧になりました。

その位里さん、俊さんご夫妻が二人して描かれた絵が「原爆の図」。15枚の連作で、ひとつひとつはたいへん大きな絵だそうです。そのご夫妻の絵が、「原爆の図」という画集として出版されています。 

この6月、この「原爆の図」のうち6作品が米国ワシントンのアメリカン大学美術館で開催されている原爆展(同大学と広島、長崎市が共催)で公開されたというニュースが報道されました。 

「ひろしまのピカ」は、70歳に近い年齢となった俊さんが、1980年に世の子どもたちに原爆の本当を伝えたいとのおもいで描かれた絵本。 

「原爆の図物語」は、位里さん、朝日ジャーナル副編集長だった宇佐美承さんという方が、俊さんご夫妻の物語を子ども向けに書いた本です。

ご夫妻が「原爆の図」や「ひろしまのピカ」に取り組まれた経緯、埼玉県東松山市にご夫妻が住まわれ、そこに【原爆の図丸木美術館】を建設された様子なども書かれています。

この本のあとがきには、今年2月に亡くなられた児童文学作家の松谷みよ子さんがご夫妻の思い出を寄せています。 

3冊の本は、どれも我孫子市民図書館にあります。是非、手にとってみてください。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)