2016年8月5日

【本の紹介】 戦争といのちと聖路加国際病院ものがたり

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  書 名 戦争といのちと
聖路加(せいるか)国際病院ものがたり
  著 者 日野原重明
  出版社 小学館
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この本の著者である日野原重明さんのことを、テレビや新聞でご存知の方は多いと思います。聖路加国際病院名誉院長であるあの日野原先生です。この本は20159月に出版、日野原先生が104歳で書いた「病院で見つめた太平洋戦争」の本です。
 
聖路加国際病院は、1902年に米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが、当時、外国人居留地であった築地明石町に開いた小さな診療所「聖路加病院」がその始まりです。
アメリカの最新医学を積極的に取り入れ、気鋭の専門医を集め、設備も拡大したこの病院は1917年に聖路加国際病院と改称されました。京都帝国大学医学部大学院で循環器学を学んでいた日野原先生は、太平洋戦争が始まった1941年に聖路加国際病院に内科医として勤務するようになりました。日野原先生の聖路加での仕事は、まさに太平洋戦争とともに始まったということになります。

この病院は、米国聖公会や米赤十字の支援のもとでキリスト教精神にもとづいて運営されていましたが、戦時体制下1943年には、キリスト教聖人の名前を病院名とし、塔に十字架をかかげているのは適切でないという政府指導により、塔の上の十字架は切断、病院名も大東亜中央病院と改名しました。
戦局が悪化した1945年、10万人以上の死者と100万人もの被災者を出したといわれる310日の東京大空襲の時には、大やけどや怪我を負った人が荷物のようにトラックに山積みにされて、この病院に運ばれてきたそうです。しかしながら、もはや病院に薬はなく、患部の分泌物を吸収するために新聞紙を燃やした粉を傷口にふりかけるのが精一杯だったそうです。

戦争末期、空襲で住む家や肉親をなくし、失意のどん底にいる人たちを力づけようと、日野原先生は、病院職員や病院に併設されている看護専門学校の生徒たちとともに、不自由な生活をしている人たちへの慰問活動を開始、四谷、中野、目黒、世田谷などの避難所を巡りました。

戦争が終わると、病院施設は米軍に接収されて米軍極東中央病院となったため、日野原先生たちは、現在国立がんセンターがある場所に「聖路加築地分院」という名の仮病院を開設して、診療を行いました。仮病院は本来の聖路加国際病院にくらべればとても小さかったようですが、一面焼け野原、劣悪な衛生環境となった東京において、食糧難、物資不足とたたかいながら、地域の公衆衛生活動に取り組みました。
ようやく1955年、聖路加本院が米軍から返還され、聖路加国際病院が元の地に戻り、現在に至っています。 

日野原先生は、「戦争は、自分とは別世界のことだなあ」と思うかもしれない子どもたちに向けて、「たがいの存在をみとめ合い、ゆるし合えば、その先にはかならず平和と幸せがまっている」ということを伝えようとして、この本を書いたそうです。

この本の最後に、日野原先生は、次のように書いています。 

もし、きみたちがわたしの話に、少しでも共感できるところを発見したら、いのちのこと、戦争をしない平和な世界の実現についていっしょに考えてみてくれませんか。 

この本、是非手にとってみてください。
まず、親から読んでみるというのはいかがでしょうか。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年8月3日

今年は長崎平和祈念式典に市内中学生12名が派遣されます

  我孫子市では、2005年(戦後60周年)から、平和事業の一環として、毎年8月に、広島市平和記念式典または長崎市平和祈念式典に、市内の中学生を代表団として派遣しています。昨年までに既に100名近い中学生が広島・長崎に派遣されています。

昨年からは、現在は高校生、大学生、社会人となっているかつての派遣中学生が講師となって、市内小学校の6年生を対象に、派遣中学生として広島・長崎で体験したこと、感じたことを伝え、原爆や戦争について意見を出しあい、一緒に平和について考えるリレー講座も開催されるようになり、我孫子市の中学生派遣事業でまかれた種が確実に育っていることを感じます。

今年は、8月8日から10日までの日程で、12名の中学生が長崎に派遣されます。
派遣期間中、12名の中学生は、長崎市が主催する「青少年ピースフォーラム」に参加、そこに集ってくる全国の小・中学生、高校生とともに被爆の実相や平和の大切さを学習し、交流を深めます。
89日には我孫子市民の皆さんが平和への祈りをこめて折ってくださった千羽鶴を長崎平和公園内で奉納し、長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参列します。

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先輩からのアドバイスを聞く中学生たち
88日に長崎に向けて出発する派遣中学生12名が、730()に市役所に集合して事前学習会を行いました。学習会では4年前に派遣中学生として長崎を訪れた先輩2(現在高校3年生)から、どのような準備をして長崎を訪問したらよいか、長崎から我孫子に帰った後にどのようにして周囲の人たちに派遣の体験を伝えたらよいか、アドバイスを受けました。
また、我孫子市在住の被爆者(胎内被爆)の方からは、被爆者としての体験、思いについて貴重なお話を伺いました。


星野市長、倉部教育長とともに
事前学習会後には、星野我孫子市長、倉部教育長を表敬しました。市長、教育長ともに中学生とともに長崎を訪問しますが、市長からは、「派遣日程中は、皆さんと多くの時間を一緒に過ごします。長崎でよく見て、よく聴いて、自分が感じたこと、考えたことについてたくさん話し合いましょう」との言葉をいただきました。

今夏長崎に派遣される中学生たちによる派遣報告会は12月4()にけやきプラザふれあいホールで開催されます。派遣報告会に、ご期待ください。

2016年8月2日

【ご案内】 被爆71周年我孫子市平和祈念式典・映画上映会

本年も、以下の通り「被爆71周年 平和祈念式典」を開催します。多くの市民の皆さんが、平和祈念式典においでくださるようお待ち致しております。

 ■日 時:平成28813() 930
 ■場 所:手賀沼公園内「平和の記念碑」前(雨天実施)
 ■内 容:黙とう、献花、長崎派遣中学生の報告 等

式典後には、平和に関する映画の上映会(無料)を予定しています。今年は、こども向けのアニメ作品二本を上映します。あわせて、是非お越しください。

 ■上映会日時:平成28813() 1040頃~
 ■場   所:アビスタホール 
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クリックで拡大表示します
手賀沼公園には、平和を祈念するモニュメントが多くあります。平和祈念式典においでくださった折りに、これらのモニュメントをご覧いただければ幸いです。

   ※    モニュメントの名前をクリックすると、それぞれのモニュメントに関する本ブログの記事が開きます。

2016年7月6日

【本の紹介】長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産

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  書 名 長崎 旧浦上天主堂
      1945-58 失われた被爆遺産
  写 真 高原 至
  著 者 横手 一彦
  英 訳 ブライアン・バークガフニ
  出版社 岩波書店
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長崎浦上地区は、16世紀半ばザビエルによるキリスト教伝来以来カトリック信者の多いキリシタンの里でした。江戸末期から明治初期にかけては「浦上四番崩れ」と呼ばれる大規模なキリスト教徒迫害事件が発生、3000人余りの人びとがこの地を追われ、配流先でも過酷な弾圧を受けました。

浦上天主堂は、爆心地から約500
この事件は、英米等列強からの激しい非難を招き、不平等条約改正という大きな課題を背負っていた明治政府は、ようやく1873(明治6)になってキリシタン禁制を廃止、配流されながら生きながらえ帰郷した人びとが、1879(明治12)に浦上の地に小聖堂を建てました。
さらに父祖の信仰と苦難の記憶を受け継いだ人びとは、資金と労力を出し合い、1895(明治28)から30年かけて、1925(大正14)に浦上天主堂を完成。完成した赤レンガ造りの浦上天主堂は、当時東洋一といわれるほど大きく立派な教会でした。
194589日、米軍機が投下した原爆「ファットマン」は、この浦上天主堂を、原形をとどめぬまでに破壊したのです。浦上地区のカトリック教徒12000人のうち、8500人が被爆死したと言われています。浦上の人びとは、この悲劇を「浦上五番崩れ」と呼びました。 

ここで紹介する「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産」という本には、かろうじて残った浦上天主堂の外壁の一部が、被爆後13年間この地に立ち続け、浦上の人びとの生活の中に根付いていた姿と、19583月に至って、その外壁が天主堂再建のために解体撤去される過程を、写真を通じて伝えています。

黒く焼け焦げた聖母像、使徒聖ヨハネ像、聖アグネス像の姿、仮鐘楼に据え付けられた「長崎の鐘」、外壁前の花嫁、残墟前で遊ぶ子どもたち、鐘塔をスケッチする男子生徒。
原爆によって無残な廃墟となっても、浦上の人びとの生活の奥深くに根付いていた旧浦上天主堂の重みを、私たちも垣間見ることができるように思えます。 

この本は、我孫子市民図書館に蔵書があります。
写真集としてページをめくるだけでも、それを見る人の心に届くものがあります。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年7月5日

派遣中学生リレー講座 : 6月25日湖北小学校

 我孫子市は、平成17年から毎年被爆地広島・長崎に我孫子市内中学生代表を派遣しています。昨年、戦後70年平和事業の一環として、これまで広島や長崎に派遣され、現在では社会人・大学生・高校生となった当時の派遣中学生による市立小学校全校でリレー講座を開催し、各校の小学6年生と平和について一緒に考える取組みを実施しました。
「ぜひリレー講座を続けたい」という声が昨年参加したもと派遣中学生たちからあがり、今年も市内小学校でリレー講座を開催することとなりました。
湖北小学校で625()に開催されたリレー講座を、平和事業推進市民会議の磯部栄治さんが見学され、その様子をレポートしてくださいましたので、以下にご紹介します。
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広島・長崎派遣中学生による平和の授業「リレー講座」 

625日に湖北小学校で行われた、リレー講座を見学しました。
6年2組の授業では、講師の小谷典子さん(H24年度派遣・現在高校3年生)が語り始めます。広島・長崎に落とされた原子爆弾の脅威や恐ろしさを、自分が現地に行って体感した言葉で。子供たちは自分たちとそう年も離れてないお姉さんから聞く原爆の話に、静かに聞きいっていました。みなしきりにメモを取っていました。 

講師が被爆した小学生の詩を3つ朗読しました。
教室に静かに力づよく響く声が、子供たちの中にすっと入っている気がしました。
「原爆は大人も子供も動物も関係なく傷つけ奪っていくのです。」
小谷さんの声の響きは大人をも納得させるものでした。
「今は平和ですか?」の問いかけに、平和だと感じる人、平和じゃないと感じる人の、意見が発表されましたが、「殺人や自殺があるので、平和じゃないと思います」との声に子供たちも不安を抱いていると感じました。

最後に「平和な世の中にするために今日から自分ができること」を班に分かれて話あい、それぞれが葉っぱを型どった紙に一生懸命に書いてました。
 

広島・長崎へ行った中学生が、高校生・大学生となって地元の小学生へ思いを伝える、まさにリレー講座だと、あらためて素晴らしい内容に感動しました。
今回、保護者の参加の方は少なかったですが、もっと多くの保護者の方にも聞いて欲しいと思いました。
平和を繋ぐ大切な活動だと感じました。

2016年6月18日

【本の紹介】ヒロシマ

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  書 名 ヒロシマ
  著 者 ジョン・ハーシー
  出版社 法政大学出版局
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この本の著者ジョン・ハーシーは、「20世紀アメリカ・ジャーナリズムの業績トップ100」の第一位に選ばれたピューリッツァー賞ジャーナリスト。彼は、19465月に広島を訪れ、6人の被爆者の体験を聞き取り、5章からなるこの本の4章までを書きました。


「ヒロシマ」を掲載したTHE
NEW YORKER誌(1946/8/31
4章までの記事は、米国の知識階級向け週刊誌ニューヨーカー誌に掲載されました。普段は多くの短篇を載せているニューヨーカー誌ですが、1946831日発行のニューヨーカー誌は、ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」だけで全誌が埋め尽くされていました。ニューヨーカー誌のこの号は、一日で30万部が売り尽くされたと言われています。原爆を投下した米国の市民に、原爆の真実を初めて伝えたのは、ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」でした。

「ヒロシマ」は、19494月に日本語版が出版されました。翻訳者のうちの一人は、この本に被爆体験が紹介された日本キリスト教団広島流川教会の谷本清牧師でした。谷本牧師は、戦後渡米して、広島の惨状と平和を米国内で訴え、「No More Hiroshima」の運動を提唱しました。

ジョン・ハーシーは、19854月、最初の訪問から39年後に再び広島を訪れました。そして、39年前に被爆体験を聞き取った6人のその後を取材し、この本の第5章「ヒロシマ その後」を書きました。今、私たちが手にとることのできる「ヒロシマ」は5章までがおさめられた「ヒロシマ [増補版]」です。

今年2月に本ブログで紹介しました秋葉忠利元広島市長の「報復ではなく和解を」には、以下のような文章があります。 

なぜ、世界には「力の支配」が蔓延しつつあるのでしょう。なぜ今、三度目の核兵器使用を恐れなくてはならないのでしょうか。

一つには、世界的に戦争の記憶、特に、核戦争の記憶が薄れつつあるからです。世界のリーダーたちのほとんどは戦争体験を持っていないのです。彼らは原爆の恐ろしさを想像することなど逆立ちしてもできません。ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』や長田新の『原爆の子』、大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』、そしてジョナサン・シェルの『地球の運命』さえも忘れられつつあります。
(岩波現代文庫 秋葉忠利「報復ではなく和解を」 p.24
 
ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」は、我孫子市民図書館でも借りて読むことができます。特に若い方々に読んでいただきたい本です。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2016年6月14日

戦後70年記念誌 『祈り』 を発行しました



 我孫子市では、平成27年度に、戦後70年・我孫子市平和都市宣言30年記念平和事業の一環として、市民の方から寄せられた戦中・戦後の体験や、平和について思うこと、我孫子市の平和事業などを綴った『戦後70年記念誌~祈り~』を作成しました。

記念誌は、市役所の行政情報資料室や図書館(我孫子・湖北台・布佐)、近隣センターでご覧いただけますが、この記念誌のPDF版を閲覧できる我孫子市ホームページのアドレスをご紹介します。
 
 

== 我孫子市2015年度 戦後70年記念誌 ~祈り~ ­­­­==
 
【はじめに】
我孫子市は、昭和60123日に平和都市を宣言しました。
被爆した広島市旧市庁舎の側壁と敷石を我孫子市原爆被爆者の会が譲り受け、我孫子市が、昭和618月、手賀沼公園内に「平和の記念碑」を建立しました。
市長、教育長、我孫子市平和事業推進市民会議会長の挨拶文を掲載しています。 

【目次】
目次 

【第1部 平和祈念文集】
「次世代に伝えたい戦中・戦後の体験」「平和について思うこと」をテーマに原稿を募集し、63名の市民の皆さんから寄稿いただきました。

【第2部 我孫子市の平和事業】

1.継続事業
我孫子市では、平和祈念式典のほか、戦後50年、60年、65年の節目の年に記念事業を実施し、戦後60年にあたる平成17年から、被爆地の広島や長崎への中学生派遣事業を始めました。また、平成20年には平和事業推進条例を制定し、平和事業市民会議とともに平和事業に取り組んでいます。平成27年は、節目の年にあたり、毎年行っている平和事業を拡大して実施しました。

2.戦後70年・我孫子市平和都市宣言30年記念平和事業
我孫子市平和事業推進市民会議の委員28名は、「イベント」「ホームページ」「小中学校関連」「記念誌」の4つの部会に分かれて、それぞれの事業を企画し、実施しました。

【第3部 これまでの平和への取り組み】
我孫子市がこれまでに取り組んできた平和事業を年表形式にまとめました。 

【資料編】
平和事業推進条例、平和事業推進市民会議委員名簿、編集後記などを掲載しています。

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戦後70年記念誌のほか、戦後60年、65年の記念誌など、我孫子市の平和事業の取組みは、我孫子市の以下サイトからご覧いただけます。

2016年6月11日

オバマ大統領の折り鶴と我孫子の禎子鶴

 広島を訪れたオバマ大統領が広島市に寄贈した自作の折り鶴が、69日から8月末までの予定で、広島平和記念資料館(原爆資料館)で公開されています。
オバマ大統領については、事前に「オバマ氏が禎子の鶴を見たがっている」と伝えられていたと報道されていました。


アビスタに常設展示されている禎子鶴
(周囲にあるのは、我孫子市民の方が作った折鶴)
「禎子鶴」は、広島に投下された原爆で被爆して10年後に白血病を発症して病床にあった佐々木禎子さんが、キャラメルの包み紙で折った折鶴。
オバマ大統領は、原爆資料館でこの禎子鶴に体をかがめ、顔を近づけて見入っていたということです。
そして、オバマ大統領自身が作って携えてきた折り鶴が、資料館内で大統領を迎えた小中学生2人に手渡したというニュース、ご覧になった方も多いことと思います。  


すでにこのブログ昨年12月17日記事でも紹介しましたが、佐々木禎子さんが折った禎子鶴が、禎子さんの兄である佐々木雅弘さんと甥の佐々木祐滋さんにより我孫子市にも寄贈され、1212日からアビスタにも常設展示されています。
オバマ大統領の広島訪問により禎子鶴がニュースに取り上げられた先週、あらためてアビスタの禎子鶴の紹介記事が、東京新聞に掲載されました。こちらの記事もぜひご覧ください。 

2016年6月10日

オバマ米大統領の広島訪問

 521日、オバマ大統領が現職米国大統領として初めて、被爆地広島を訪れました。
米国内世論を意識し、原爆投下の是非には触れない訪問であったとはいえ、被爆71年目の米国大統領広島訪問は、「歴史的訪問」として大きな反響をもって受け止められています。
オバマ大統領は20094月のプラハでの演説で、核廃絶への具体的な目標を示したとされますが、このたびの広島記念公園での演説では以下のように語りました。 

We may not realize this goal in my lifetime. But persistent effort can roll back the possibility of catastrophe. We can chart a course that leads to the destruction of these stockpiles. 

この目標(核なき世界)は、私が生きている間に達せられないかもしれません。しかし、私たちは、根気強い努力で悲劇の可能性を減らすことはできるのです。(核兵器の)大量備蓄を廃絶する道筋をつけることが、私たちにはできるのです。 

平和記念公園でのオバマ大統領献花の場に列席された被爆者代表の方々の中に森重昭さん(1937年生まれ)というアマチュア歴史家の方がおられました。森さんは、自らも被爆者でありながら、私財を投じて、広島で原爆の犠牲となった米兵捕虜12名全員の遺族を探し出し、家族が原爆の犠牲となった事実を伝えてきました。オバマ大統領が献花の後、抱擁を交わした相手の方が森重昭さんでした。
オバマ大統領演説の冒頭に以下のようなくだりがあります。 

Why do we come to this place, to Hiroshima?  We come to ponder a terrible force unleashed in a not so distant past. We come to mourn the dead, including over 100,000 in Japanese men, women and children; thousands of Koreans; a dozen Americans held prisoner. Their souls speak to us. They ask us to look inward, to take stock of who we are and what we might become.  

私たちは、何のためにこの地、広島をおとずれるのか。私たちは、そう遠くはない過去に解き放たれてしまった恐ろしい(原爆の)力に思いを馳せるためにこの地を訪れるのです。10万人以上の日本人の男女、子どもたち、数千の朝鮮人、そして十数人の米国人捕虜を悼むために来るのです。彼らの魂は、私たちに語りかけます。彼らは、私たちが何者であるのか、何をなしうるのかを私たち自身に問いかけるよう求めています。 

オバマ大統領は演説の中で、被爆者の魂は、核廃絶という人類史上かつてない目標に、私たちがどのように向かっていくのか、それを問うているのだと語ります。 

And yet, the war grew out of the same base instinct for domination or conquest that had caused conflicts among the simplest tribes; an old pattern amplified by new capabilities and without new constraints.  

しかしながら戦争は、もっとも単純な部族間の紛争と同じ支配や征服の本能から生まれながら、新しい(原爆の)力によって昔からのパターンが増幅され、そしてついには歯止めを失ってしまったのです。
 

Science allows us to communicate across the seas and fly above the clouds; to cure disease and understand the cosmos. But those same discoveries can be turned into ever-more efficient killing machines. The wars of the modern age teach this truth. Hiroshima teaches this truth.  

科学によって、私たちは海を越えてコミュニケーションし、雲の上を飛行し、病気を治し、宇宙を知ることができるようになりました。しかし、同じこれらの発見が、恐るべき殺戮の道具をもたらしているのです。現代の戦争はこの真実を私たちに突きつけています。広島がそのことを教えてくれているのです。
 

How often does material advancement or social innovation blind us to this truth. How easily we learn to justify violence in the name of some higher cause. Every great religion promises a pathway to love and peace and righteousness, and yet no religion has been spared from believers who have claimed their faith as a license to kill. 

物質的な進歩、社会的な革新の中で、いくたび私たちはこのことを見失ってきたのでしょうか。いかに安易に私たちは、より高い大義とされるものを理由に暴力を正当化してきたでしょうか。あらゆる偉大な宗教が愛、平和、公正への導きを約束しながら、信仰をもって殺戮を正当化する信徒から免れていないのです。
 

But staying true to that story is worth the effort. It is an ideal to be strived for; an ideal that extends across continents, and across oceans. The irreducible worth of every person, the insistence that every life is precious; the radical and necessary notion that we are part of a single human family - that is the story that we all must tell. 

しかしこの物語に忠実であり続けることは、努力に値することなのです。それは、大陸を横切り、海を越えて広げていくべき理想なのです。すべての人の譲ることのできない価値、すべての命は尊いという信念、私たちはみな人類という家族の一員なのだという根本的でなくてはならない認識、これらがみな、私たちが伝えていかなければならない物語なのです。
 

任期が残りわずかとなったオバマ大統領は、演説を終えて広島を去りました。
核廃絶という目標にどのように向き合っていくのか、そのことが私たちみなに問われています。

オバマ大統領の広島演説の全文については、以下のサイトなどを参照ください。