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書 名 ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家
著 者 クラウス・コードン
出版社 偕成社
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エーリッヒ・ケストナーの名前を、「エーミールと探偵たち」や「飛ぶ教室」を読んでご存知の方は多いと思います。
ケストナーは、1899年2月にドイツのドレスデンで生まれました。14歳の時(1913年)、ケストナーは教師になることを目指して教員養成所に入学しますが、先生や上級生に絶対服従、規則で生徒たちをがんじがらめにするこの養成所の空気がいやでたまりませんでした。翌1914年に第一次大戦が始まり、ケストナーも1917年(18歳)に徴兵されますが、心臓を病んで除隊。ドイツ敗戦後、教員養成所から大学進学を目指してギムナジウムに転校、1919年ライプツィヒ大学に入学して、文学、演劇、哲学を学びながら、新聞編集委員の仕事を始め、詩や舞台批評を発表し、やがて詩人として名が知られるようになります。ケストナーの詩や批評は、ヒューマニズムに裏づけられた社会風刺やパロディに満ちた作品として世の人びとに受け入れられました。
そうした中、ドイツ国内で「ドリトル先生」シリーズや「くまのプーさん」などの翻訳書を発行していた出版社から、子ども向けの本を書くことをすすめられて書いたのが、有名な「エーミールと探偵たち」。この本は1929年に発行されると瞬く間に人気を博し、さまざまな言語に翻訳され、世界中の子どもたちに親しまれるようになりました。
しかし、第一次大戦後世界でもっとも民主的といわれたヴァイマル憲法を制定したドイツで、ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が台頭、1933年にはとうとうヒトラーが政権を握ります。
ケストナーと含むドイツの多くの文学者たちは作品を書くことを禁じられ、トーマス・マン、フロイト、ゴーリキー、ヘミングウェイなど数多くの国際的知識人・作家の本がドイツ国内で焼かれました(焚書)。ケストナーの本も火に投げ込まれました。
ナチスに反発する多くの知識人・作家が弾圧され、逮捕者も出るようになり、ドイツから海外に亡命する知識人が少なくなかった中で、ケストナーは、ドイツ国内に留まります。
ヒトラーが政権をとった1933年に発表された「飛ぶ教室」に、ケストナーの平和に対する強い意志がこめられた文章があります。
「飛ぶ教室」の中で主人公である少年たちの学校のクロイツカム先生が、少年たちに次のように言います。
平和を乱すことがなされたら、それをした者だけでなく、
止めなかった者にも責任はある。
多くの本を焼いたナチスは、ケストナーのことも苦々しく受け止めていたはずですが、ケストナーが世界的に、特に子どもたちに人気があったため、却って世の反発を招くことをおそれ、ケストナーの児童文学だけは、焚書の対象にしなかったということです。
ケストナーが亡くなったのは1974年7月。第二次大戦後の世の中を、ケストナーはどのように見ていたのでしょうか。
第二次大戦後、新しい平和な国際秩序を作ろうとしているはずの各国首脳の様子を見て、ケストナーが書いたのが「動物会議(1949年)」という絵本です。
87回も会議を重ねても結論がだせない人間たちに業を煮やして、世界中の動物たちが集まり「最初で最後の会議」を開催します。その会議の目的はただひとつ、「子どもたちのために!」でした。
ケストナーの父親は、実はユダヤ人の医者だったと言われています。そのことをケストナーは18歳の時に母親から告げられていたとされていますが、ケストナー自身はそのことを明言していません。
もし、父親がユダヤ人であったとしたなら、戦中のドイツに踏みとどまり、ナチスへの抵抗をやめようとしなかったケストナーの意志は、心温まる作品を書く児童文学者という私たちのケストナーに対するイメージを大きく超えて、たいへん強く固いものだったと言わなければなりません。
このようなケストナーの生涯を書いた「ケストナー ナチスに抵抗し続けた作家」を読み、その後に、もう一度、「飛ぶ教室」をはじめとする作品を読んでみてください。
第一次大戦から第二次大戦、さらにその後を生きたケストナーの言葉の中に、戦後71年を迎えている私たちに、伝わってくるものが見つかるかもしれません。
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)