2015年12月4日

手賀沼殉難教育者之碑の除幕式

1122()、湖北小学校にて、手賀沼殉難教育者之碑の移転に伴う除幕式が行われました。

戦争末期に起こった手賀沼教員殉職事件をご存知でしょうか。
この事件について、柏市のホームページに詳しく掲載されていますので、以下に引用して紹介させていただきます。

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太平洋戦争末期に起きた女子教員たちの水難事故は、長い手賀沼の歴史の中でも特に悲しい出来事として記憶されています。長引く戦争の中で男子教員の多くは戦地に赴き、教室で子供たちに教鞭をとっていたのは若い女の先生たちが中心となっていました。
昭和191122日、東葛飾郡教育会の主催による研修会が実施されます。会場は午前中が湖北国民学校(現在の我孫子市立湖北小学校)、午後が手賀東部国民学校(現柏市立手賀東小学校)で、湖北国民学校での研修を終えた参加者達は3艘の船に乗り、手賀東部国民学校 のある当時の対岸の手賀村へと乗り出したのです。
事故の様子は次のようなものでした。
3艘で20人以上の乗船は無理であるにもかかわらず、学校関係者44人を中心に50人を乗せていた。大勢が乗れるようにと船はそれぞれ縄で繋ぎ、しかも船頭は2人だけであった。船頭は無謀な乗船に反対したが、戦時中の非常時でもあり押し切られたという。 はじめのうちは穏やかな天気で、一同はのんびりとあたりを眺めながら談笑していたが、対岸までもう少しという時、突然強風が吹き出した。激しい風波による浸水が船を襲い、たちまち船内は悲鳴と大混乱に包まれた。皆は濡れまいとして片側の船に移動したため、バランスを失ってまず一番風下の船が沈み、縄で繋がれていたため2番船・3番船も次々と転覆していった。初冬の沼の水は凍えるように冷たく、その上モンペ姿の冬支度では泳ぐこともままならず、次々と力尽きていった。」
懸命の救出活動も空しく、乗船者50人のうち18人の犠牲者を出すと言う大惨事となったのです。当時の新聞は「視察会の女教員一行、伝馬船が転覆遭難、ああ魔の手賀沼 十八の生霊を呑む」と大きく報じました。

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手賀沼殉難教育者之碑は、もともと1948年に我孫子市中里地先の手賀沼に面した台地の上に建立されましたが、手賀沼干拓による地形の変化により碑の場所がわかりづらくなったことなどを受け、この事件で殉難された教員の方々が最後に研修を受けられた湖北小学校内に移転されたものです。

戦争は、私たちの身近なところに、このような惨禍も引き起こしていました。

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