2015年12月17日

禎子鶴の常設展示が始まりました(アビスタ)

常設展示される禎子鶴
(周囲にあるのは、我孫子市民の方が作った折鶴)

 126()の「平和の集い」で佐々木禎子さんの兄の佐々木雅弘さんと甥の佐々木祐滋さんから寄贈された禎子鶴の常設展示がアビスタで始まりました。

常設展示開始にあたり、1212()、アビスタで『禎子鶴お披露目式』が執り行われました。

 

禎子鶴は、広島に投下された原爆で被爆して10年後に白血病を発症して病床にあった佐々木禎子さんが、キャラメルの包み紙で折った折鶴。高さ1㎝ほどの小さなもので、針を使って折られたもの。
 

お披露目式後、アビスタ常設展示コーナー前で
禎子鶴展示コーナーは、アビスタの西側入口から入ったところに設置されています。是非、ご覧になってください。






 禎子鶴の常設展示については、朝日新聞で紹介されました。

■朝日新聞

12月6日、[平和の集い]が開催されました


https://drive.google.com/file/d/0B63FzjF8R__9QnV6UXRzZ1NiWjQ/view?usp=sharing
「平和の集い」プログラム。
クリックで4ページ目まで

  126()、けやきプラザふれあいホールで「平和の集い 〜我孫子から平和を願う〜」が開催されました。延べ500名を超える方々にお集まりいただき、核兵器の廃絶と平和への願いを、ともに確認しあう場となりました。

◆ 中学生が語る 平和への思いを!

今夏広島市平和記念式典に参列した中学生24名が、広島で学び考えてきたことを自分たち自身の言葉で語ってくれました。

◆ サダコ鶴寄贈式

佐々木禎子さんの折り鶴が、禎子さんの兄の佐々木雅弘さんと甥の佐々木祐滋さんにより我孫子市に寄贈されました。


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◆ 「禎子物語」の朗読

佐々木雅弘さんと我孫子中学校演劇部により朗読された「禎子物語」は、既に禎子さんの物語をよく知る人、初めて禎子さんの物語を知る人、どちらの胸にも深く響きました。

INORI コンサート in ABIKO

シンガーソングライターである佐々木祐滋さんの「INORI」をはじめ、布佐中学校吹奏楽部など我孫子市近隣在住の方々が、演奏を通して平和へのメッセージを訴えました。最後に、会場も含む全員で「INORI」を合唱し、平和の集いを閉じました。

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平和の集いにはマスコミの取材もあり、NHKJ-COMのテレビニュース、毎日新聞で集いの模様が紹介されました。
 
 ■ 毎日新聞 :サダコの折り鶴  平和の象徴、我孫子に寄贈
   

2015年12月5日

【本の紹介】 世界の果てのこどもたち

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書 名 世界の果てのこどもたち
著 者 中脇初枝
出版社 講談社
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戦後70年にあたるからでしょうか。今年は、戦争の記憶を活字に刻み、戦後を振り返ろうとする本や映画が多いように思えます。
「世界の果てのこどもたち」も今年6月に出版された本です。

珠子は、家族とともに満州に渡って満州開拓団に参加、開拓団村に暮らすことになった珠子(たまこ)。珠子がその開拓団村に暮らしていた朝鮮人の美子(ミジャ)。横浜で裕福な家庭に育ち、父とともに満州を訪れた茉莉(まり)。ともに国民学校一年生であることは同じでも、それまでまったく違った環境で育ってきた三人の少女が戦時中の満州で出会い、時代の奔流によって離れ離れになっていきます。戦争が終わり、日本に帰国する茉莉、朝鮮での生活基盤を既に失っていた家族とともに日本に渡る美子、そして、母親から引き離され、中国に取り残される珠子。
愛情を注いでくれる中国人養親との暮らしの中でいつのまにか日本語さえ忘れてゆく珠子。横浜大空襲で肉親を失い施設で暮らすこととなる茉莉。38度線による祖国分断に翻弄される美子。物語は、中国文化大革命の時代を経て、中国残留孤児の肉親捜しが始まる1980年代へと引き継がれていきます。
戦争の時代は、少女三人に互いの絆の深い記憶を刻んでおきながら、彼女たちの肉親やふるさとを奪い、彼女たちのアイデンティティまで根こそぎ揺るがしながら、三人を置き去りにしていきます。

少女たちを踏みにじっていく戦争の時代には、少しの容赦もありませんが、物語の最後に、茉莉が語る言葉に救いを感じます。

いくらみじめで不幸な目に遭ってもね、享けた優しさがあれば、それをおぼえていれば、その優しさを頼りに生きていけるのね。それでその優しさを人に贈ることもできる。

この物語は、40年もの間、少女三人を「果て」に追いやり続けた東アジア(中国・朝鮮・日本)の時代を語りながら、そうした時代の流れを超えてつながり続ける人の絆のかけがえなさを、読む者の胸に訴えてきます。

若い人に是非とも読んでほしい、強く薦めたい一冊です。 

(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)

2015年12月4日

手賀沼殉難教育者之碑の除幕式

1122()、湖北小学校にて、手賀沼殉難教育者之碑の移転に伴う除幕式が行われました。

戦争末期に起こった手賀沼教員殉職事件をご存知でしょうか。
この事件について、柏市のホームページに詳しく掲載されていますので、以下に引用して紹介させていただきます。

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太平洋戦争末期に起きた女子教員たちの水難事故は、長い手賀沼の歴史の中でも特に悲しい出来事として記憶されています。長引く戦争の中で男子教員の多くは戦地に赴き、教室で子供たちに教鞭をとっていたのは若い女の先生たちが中心となっていました。
昭和191122日、東葛飾郡教育会の主催による研修会が実施されます。会場は午前中が湖北国民学校(現在の我孫子市立湖北小学校)、午後が手賀東部国民学校(現柏市立手賀東小学校)で、湖北国民学校での研修を終えた参加者達は3艘の船に乗り、手賀東部国民学校 のある当時の対岸の手賀村へと乗り出したのです。
事故の様子は次のようなものでした。
3艘で20人以上の乗船は無理であるにもかかわらず、学校関係者44人を中心に50人を乗せていた。大勢が乗れるようにと船はそれぞれ縄で繋ぎ、しかも船頭は2人だけであった。船頭は無謀な乗船に反対したが、戦時中の非常時でもあり押し切られたという。 はじめのうちは穏やかな天気で、一同はのんびりとあたりを眺めながら談笑していたが、対岸までもう少しという時、突然強風が吹き出した。激しい風波による浸水が船を襲い、たちまち船内は悲鳴と大混乱に包まれた。皆は濡れまいとして片側の船に移動したため、バランスを失ってまず一番風下の船が沈み、縄で繋がれていたため2番船・3番船も次々と転覆していった。初冬の沼の水は凍えるように冷たく、その上モンペ姿の冬支度では泳ぐこともままならず、次々と力尽きていった。」
懸命の救出活動も空しく、乗船者50人のうち18人の犠牲者を出すと言う大惨事となったのです。当時の新聞は「視察会の女教員一行、伝馬船が転覆遭難、ああ魔の手賀沼 十八の生霊を呑む」と大きく報じました。

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手賀沼殉難教育者之碑は、もともと1948年に我孫子市中里地先の手賀沼に面した台地の上に建立されましたが、手賀沼干拓による地形の変化により碑の場所がわかりづらくなったことなどを受け、この事件で殉難された教員の方々が最後に研修を受けられた湖北小学校内に移転されたものです。

戦争は、私たちの身近なところに、このような惨禍も引き起こしていました。