書 名 長崎 旧浦上天主堂
1945-58 失われた被爆遺産
写 真 高原 至
著 者 横手 一彦
英 訳 ブライアン・バークガフニ
出版社 岩波書店
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長崎浦上地区は、16世紀半ばザビエルによるキリスト教伝来以来カトリック信者の多いキリシタンの里でした。江戸末期から明治初期にかけては「浦上四番崩れ」と呼ばれる大規模なキリスト教徒迫害事件が発生、3000人余りの人びとがこの地を追われ、配流先でも過酷な弾圧を受けました。
この事件は、英米等列強からの激しい非難を招き、不平等条約改正という大きな課題を背負っていた明治政府は、ようやく1873年(明治6年)になってキリシタン禁制を廃止、配流されながら生きながらえ帰郷した人びとが、1879年(明治12年)に浦上の地に小聖堂を建てました。
浦上天主堂は、爆心地から約500m |
さらに父祖の信仰と苦難の記憶を受け継いだ人びとは、資金と労力を出し合い、1895年(明治28年)から30年かけて、1925年(大正14年)に浦上天主堂を完成。完成した赤レンガ造りの浦上天主堂は、当時東洋一といわれるほど大きく立派な教会でした。
1945年8月9日、米軍機が投下した原爆「ファットマン」は、この浦上天主堂を、原形をとどめぬまでに破壊したのです。浦上地区のカトリック教徒12000人のうち、8500人が被爆死したと言われています。浦上の人びとは、この悲劇を「浦上五番崩れ」と呼びました。
ここで紹介する「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産」という本には、かろうじて残った浦上天主堂の外壁の一部が、被爆後13年間この地に立ち続け、浦上の人びとの生活の中に根付いていた姿と、1958年3月に至って、その外壁が天主堂再建のために解体撤去される過程を、写真を通じて伝えています。
黒く焼け焦げた聖母像、使徒聖ヨハネ像、聖アグネス像の姿、仮鐘楼に据え付けられた「長崎の鐘」、外壁前の花嫁、残墟前で遊ぶ子どもたち、鐘塔をスケッチする男子生徒。
原爆によって無残な廃墟となっても、浦上の人びとの生活の奥深くに根付いていた旧浦上天主堂の重みを、私たちも垣間見ることができるように思えます。
この本は、我孫子市民図書館に蔵書があります。
写真集としてページをめくるだけでも、それを見る人の心に届くものがあります。
(我孫子市平和事業推進市民会議 恒)
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